『バカの壁』を作って『バカの壁』を批判しないようにしよう(訂正)


人を『バカ』扱いする人間は、自分が『バカ』にならないように気をつけなければならない。

『バカの壁』を批判する人間は自分が『バカの壁』を作っていないか反省すべきです。

最近よく日本の知識人と思われる人々に見られる論調に、その内容を検討することなく一神教をひとまとめにして、「一刀両断に他者を切り捨て、議論をしようとしない立場」と断定するものを見かける。

こういった意見が日本に流行することを非常に残念に思う。

なぜならば、このような粗暴な議論は野蛮人しか行わないからだ。こういった宗教音痴を日本の学者が書物やマスコミで垂れ流すようになれば、ますます日本の知識人の知識のなさ、教養のなさが知れ渡ることになる。

少しでも西洋近代史をかじったことのある人なら、近代議会政治は、プロテスタントのキリスト教が支配したイギリスから生まれたということを知っているだろう。

もちろん、近代議会政治は、「一刀両断に他者を切り捨てず、対立する相手と議論をする場を設ける」ために作られたのである。

専制君主個人の恣意的な統治を防ぐための立憲政治の起源はカルヴァン派プロテスタントにある。

恐らく、プロテスタントを『バカの壁』呼ばわりしている人々は、最近の宗教戦争において、プロテスタントを名乗るグループが、問答無用に他国に侵略したり、宗教紛争を起して自民族を殺戮しているのを見てそう感じているのだろう。

宗教の議論において、「その排他性は教義そのものにあるのか、それとも、その教義とは無関係にその立場を表明する人々の勝手な意思にあるのか」を区別しなければ何も導き出せない。

たとえば、ブッシュ大統領のイラク攻撃は、自分の教会の教派の牧師たちの反対を押し切ってやったことだった。

プロテスタントの人々がこぞってイラク攻撃に賛成したのであれば話しは別だが、そうではない。多くのプロテスタント(及びカトリック)の人々の反対を押し切って行われた戦争について、なぜプロテスタント(及びカトリック)の教えそのものが批判されなければならないのか。

「いや、プロテスタントやカトリックの教義そのものにイラク戦争を行わせる原因があるからだ」と言うだろうか。

じゃあ、それを示していただきたい。

プロテスタントとカトリックが依拠している教典である聖書にイラク戦争を肯定している個所があるか?

「聖書には異教徒の領土を侵略することを命じている個所があるではないか」とでも?

残念でした。どこにもそんなのはありません。

聖書は、戦争を糾弾している。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。…」(ヤコブ4・1-2)

「カナン侵攻の記事はどうか。あれは侵略ではないか。」とでも?

残念でした。あれは、異教徒ならば侵略して領土をかすめ奪ってもよいということを教えている個所ではない。

「あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、『私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。』と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。…」(申命記9・4-5)

ここで、カナン侵攻の記事が異民族への攻撃を正当化するためのものではないことは明らかです。カナン民族が滅亡の憂き目にあったのは、自分の行いが悪く、その悪行に対して神の裁きが下ったから、ということが分かる。

それとも、「キリスト教は異端者に対して厳しいですよね。異端審問をしてガリレオなどを裁いた。」とでも?

聖書は、異端者を教会から除名せよ、と命令しています。しかし、火あぶりにせよとはどこにも書いていない。

またガリレオ裁判については、東大名誉教授渡辺正雄氏は、次のように述べておられる。

「ガリレイは、生涯誠実なキリスト教徒であり、カトリック教徒であった。・・・ガリレイは、この(コペルニクスの)地動説に賛成であり、1632年に『天文対話』を出版して地動説を弁護したことで、罪に問われたのである。しかしそのガリレイは、何も教会に反対したり、キリスト教に反対したりしようとはまったく考えていなかった。彼はむしろ、教会がいつまでも地動説に無理解のままでいたのでは、教会のためにも、また彼の母国イタリアのためにもよくないと思っていたのである。アルプスの向こう側、ドイツには、ケプラーという優れた天文学者がいて、素晴らしい成果をあげつつあった。ガリレイは、このケプラーと親しく手紙のやりとりをしていた。そのケプラーは、ガリレイの仲間の研究者であるとともに、いい意味の競争相手でもあった。カトリックのイタリアは、プロテスタントのドイツに負けてはならない。こういう気もちでガリレイは、法王やローマ教会の主だった人々に何とか新しい天文学を理解してもらおうと努力していたのである。」(『科学者とキリスト教』68ページ、講談社)

いわゆる「ガリレオ裁判は、キリスト教による科学への迫害を象徴する」という考えは間違いだ。

実際、コペルニクスはクリスチャンであった。経験科学の祖フランシス・ベーコンをはじめとして、科学革命の初期において大多数の科学者がプロテスタントのクリスチャンであり[ベーコンは薔薇十字団・フリーメイソンであると判明しましたので訂正します。彼はクリスチャンではありません。――tomi]、アメリカのプロテスタントの人々が科学を奨励したという事実からみても、キリスト教が反科学だったということを証明できないだろう。

『バカの壁』を批判する人々は、自分が問答無用に他者を切り捨てる『バカの壁』を作っていないか反省しよう。

 

 

2005年5月8日

 

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