人間を大きく見せるものにろくなのはない


<O様>
来年の5月に、BHは再びNで「クルセード」を開くそうです。
また、例のパフォーマンス(横一列に並んで手をつながせて、静かになったところで「タッチ!!」と叫んで、一人転んだら、隣の人もバランスを崩してバタバタと倒れるでしょう。そして一言「聖霊の力です。」)をやって群衆の拍手喝采を受けるのでしょう。
もううんざりなのですが、もう(1年先の!!)名古屋のホテルの予約を取ったとか、目を潤ませて「クルセード」を待ち望んでいる「ファン」にもうんざりです。
さて、今日気づいた事なのですが・・・・、
BHが目をつぶっている顔は、あのヘルベルト・フォン・カラヤンそっくりですね。
大衆受けするパフォーマンス、自己の神話化、莫大な私財、来日に際しての法外な要求etc、
もちろんカラヤンにも名演・名盤があるように、BHにも、癒しや奇蹟はあるでしょう。
しかし、あのフェイク独特の匂いと、後に残る虚しさ・・・
・・・如何でしょう?

<tomi>
BHとカラヤンどちらも自己を神格化しようとしている点で共通点があるような気がします。
イエス・キリストだけを大きくしなければならないのに、自分が大きくなって、イエス・キリストがかすんでしまう。
これは、ローマ・カトリックがやったマリアや聖人を大きくして、イエス・キリストが小さくなったのと似ています。
カルヴァン派系でも、この傾向があります。
「○○先生はすばらしい。」「△△さんの注解はすごい。」「××師の講解を読まないとローマ書は分からない。」「□□先生は天才だ。」・・・
まるで個人崇拝です。
人間がことさらに大きくなれば、キリストが小さくなるのは当然です。
説教の方法や話題の選び方、いろんなものが師のそれと似てきて、「流派」のようなものができあがる。
つまり、バベルの塔ができあがる。
そうすると、「集まって散らされないようにしよう」という心理が働いて、神などどうでもよくなって、組織の防衛のほうが大切になり、キリストそのものなどどうでもよくなる。
そのひどいやつが、パリサイ派です。
キリストを殺してしまった。
カルヴァン自身は、「パウロは人の間では聖人かもしれないが、神の前では一匹の獣に過ぎない」と言いました。
私は、どんなに優れた人がいても、人間の間で「キリストの栄光がかすんでしまうような」評価の仕方は慎むべきだと思います。
人間を大きく見せるものには、サタンが必ず一枚かんでいると見て間違いはないでしょう。

 

 

2004年7月15日

 

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