人間関係を偶像化するな


TVの人生相談で、姑との人間関係で悩む嫁からの相談がよくある。

日本では、家制度が絶対な時代があったので、姑が嫁をいびるのはその名残である。

夫婦関係よりも、家のほうが重視されてきた。これは聖書的ではない。

聖書が教える人間関係の基本は、


誰も神になるな

ということだ。

神になるとは、具体的には「神の法以上の法を人に要求する」ということである。

聖書においては、むちゃくちゃな要求をしてくる相手との人間関係を遮断できる。

ラッシュドゥーニーの著書の中でこういう例えがあった。

四肢麻痺の兄弟が、自分の境遇に怒って、家族に八つ当たりするという。この兄弟のせいで家庭がめちゃくちゃになっていると。

こういう場合は、その兄弟を追い出すことだ。

彼は、家族のメンバーとして留まるための義務を果たしていないのだから、メンバーとして留める責任は家族にはない。

人間関係は、すべてギブ・アンド・テイクである。

無条件の自由や義務を当事者の一方もしくは両方に与えるのは、腐った関係である。

我々の人間関係で「無条件で相手を受け入れる」なんてことはありえないし、あってはならない。

無条件で相手を受け入れた瞬間にその関係は堕落する。なぜならば、その人間関係が神格化され、偶像化されたから。

我々の人間関係は神の法の中になければならない。

だから、神の道徳基準に合致しなければならない。

もし、暴れ回るメンバーが家族の中にいるなら、そのメンバーを追い出すべきだ。

それを許容することは、人間関係を絶対化し、神を無視することになる。

どのような場合であっても、我々は、互いの間のルールを守るべきである。

法やルールを超越した人間は、どのような社会においても許容してはならない。

学校で暴れ、他人の勉学の邪魔をする生徒、家庭内暴力を振るう息子、職場で傍若無人に振舞い、会社に迷惑をかける社員、犯罪者・・・こういった無法者は追い出せ。

追い出さないと、その集団が堕落し、秩序が乱れ、崩壊する。

人間関係は、すべてギブ・アンド・テイクである。

一方的に義務を果たさねばならない関係、もしくは、一方的に権利を要求する関係は破壊すべきだ。

 

 

2008年4月24日

 

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