同性愛者に伝道してはならない


The Westboro Baptist Churchという教会があり、さかんにホモ反対運動をやっている。

ホモの溜まり場のようなところの前でプラカードを掲げて、デモをする。

私は同性愛者に伝道しない。なぜならば、彼らは神に見捨てられているから。


それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。 (ローマ1・24)
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。(ローマ1・26-27)
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

神は、人間が神を知ろうとしたがらず、偶像礼拝を続け、反逆し続けると、正常な状態であるならば嫌悪する欲情を心に抱くことを許される。

上記の引用聖句で「引き渡す」を意味するパラディドーミは、ユダがイエスをパリサイ人たちに引き渡した際に使われている言葉であり、英語ではbetray(人を「裏切る」)、give up to(罪人などを権力に「引き渡す」)と訳されている。(Theological Dic. of NT(G. Kittel, Eerdman, vol.2))

同性愛は、神が人間を見捨てられた結果起こる現象であり、彼らに立ち返る希望はまったくない。

神が見捨てられた者をどうして我々が救いに導くことができるだろうか。

彼らは、意識的、意図的な反逆者であり、神をあざける人々である。

「同じように、男も、女の自然な用を捨てて男同士で情欲に燃え、男が男と 恥ずべき事を行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」(ロ−マ1:27)

「燃え」と訳されている原語は ekkaio(焼き尽くす)である。28 つまり、同性愛は人間を焼き尽くす火なのである。この節の後半をウエストの翻訳にしたがって解釈すると、この箇所は次のような意味になる。彼らは「基準から逸れてしまった事の当然の結果として自分自身に報いを」29 受けてしまったのである、と。

 同性愛はこの様に最悪の背信的性行為であり、神に対する究極的敵対行為である。同性愛者は神と戦っているのである。そして、彼らの行為の一挙手一投足が神の自然の秩序と法を破壊しているのである。この様に、聖書は同性愛の神学的意味を強調している。歴史的に見れば、同性愛は、背信的国民や衰退期の文明において例外なく見られる現象である。これは時代の末期的現象と言えるのである。
http://www.path.ne.jp/~millnm/homo.html

文明が堕落し、その頂点に達すると、価値観が完全に転倒する。

正義が悪とされ、悪が正義とされる。美徳が悪徳とされ、悪徳が美徳とされる。

このような心理は、偶像礼拝から起きる。

偶像礼拝とは、被造物を崇拝することである。つまり、価値の低い者を高い者と置き換える行為である。

偶像礼拝者の心の中は、完全に転倒しており、倒錯している。

偶像礼拝は、あまのじゃくのなせる業である。

神は「心のねじくれた者にはねじまげる方」であるから、心の倒錯した人々に、倒錯した物を与えられる。

被造物として抱いてはならない欲望を抱くことを許される。

同性愛とは、神の度重なる悔い改めのメッセージを拒み続けた人間に対する裁きである。

同性愛者に伝道している人々は、同性愛が裁きの結果であると述べる聖書を無視しているのである。

これも一種の反逆である。

聖書に従う人々が行うべきことは、同性愛者を伝道して悔い改めに導くことではなく、同性愛を禁止する法律を制定し、それを厳格に執行することである。

 

 

2009年3月19日

 

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