神と御言葉に対して完全に素直になるまで試練は続く


人間が創られた主要な目的は、神の国建設です。

地球を神の王国に作り変えることです。

職業とか家庭というのは、この具体的な手段です。

人生のある時期に、神に選ばれた人は、この目標のために人生をささげます。

そうすると、神がスケジュールを組んでくださり、必要なときに必要な場面が次々現れます。(実際は、われわれが献身することすら神のスケジュールに入っているのですが。)

だから、成功というのは、自分にとって金が儲かるとか有名になることではない。

人生の一時期において失敗しても、それは神様のスケジュールに入っているので、成功なのです。

たとえば、会社を作って失敗して倒産したとします。人間的に見れば失敗ですが、神様的に見れば成功なのです。

僕は大学受験に失敗して、目指す大学に入れなかったのですが、出身大学に入って、すばらしい人々と出会った。

そこでいろんなことを学びました。

だから、人間の目で結論すべきではないです。

この世の基準を捨てて、神様から与えられた運命を一つ一つ受け入れることです。

マリアにとって、処女降誕はまったくの驚きでした。

しかし、彼女はその運命を受け入れた。

だから、用いられた。

人間は、神ではないので、人生の様々な場面で結論を下しがちです。

僕が会社や神学校に入ったときに、「やめなさい」という人がいました。

「君はそういう器ではない」と。

しかし、それは彼らが人間の目で見ているからです。

神には計画があって、その一見するとムダに思えるような寄り道をさせられる。

道が開かれたと確信したらそちらに進むべきです。

そうすれば、後で謎が解けます。

もちろん、不道徳な道に入ってはならないのです。

意思決定の基準は、まずモラルです。

神の法の範囲内でわれわれには自由な選択肢があります。

たとえば、これをすれば儲かるからというので、薬物の販売を誘う人がいるとします。

そちらに進むことは明らかに主の御心ではない。

あくまでも職業選択に際しては道徳的・社会的に問題がない職業でなければならない。

しかし、モラルの範囲内にあるから何を選択してもいいかというとそうではありません。

神は具体的に自分が進むべき道を用意しておられる。

それは、適性とか能力とかいろんな要素が入ってきます。

神はモーセとイスラエルに対して十戒をお与えになった。

だから、彼らは十戒に従うべきでした。

しかし、十戒にしたがっているから何をやってもいいのか、というとそうではなかった。

モーセは一つ一つ神に伺いをたてました。

イスラエルが神の制止を無視して勝手に敵と戦うと破れました。

われわれには、具体的な指示が必要であり、その指示に従う必要があります。

その具体的な道がどれであるかは、時間がかかる場合があります。

しかし、その感覚は次第にするどくなって、クリスチャンは時間とともに識別能力がつくようになる。

御心か御心でないかを識別する能力がつく。

動物が巣を探すときに、どこでもいいかというとそうではありません。蛸の目の前にいろんなつぼがあったとしても、彼らはやはり選択します。

彼らは一番落ち着くつぼを見つけてそこに落ち着きます。

そういったニッチというものがわれわれにもある。

結婚において、いろいろ選択する過程でいろんな人と出会うが、クリスチャンならばどの異性でもいいというわけではない。

祈り求めていくときに、落ち着く人に出会うでしょう。

神の国とは、神のスケジュールにわれわれがあわせていくときに、拡大される。

自分の意思を捨てることを訓練される必要があります。

神にとって用いやすい人とは、皮膚だけで中身が全部くりぬかれた人です。

外から見ると、普通の人間だが、中身が全部くりぬかれている。

聖霊だけがその人を動かしているようなそんな人間になることを求めておられる。

その「くりぬき」の作業は試練を通して進む。

自分の野心がつまっているような人は、使いづらいです。

神と御言葉に対して完全に素直になるまで試練は続きます。

 

 

2011年2月2日

 

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