信仰の段階が進むときに働く聖霊と悪霊


(1)
友人がある霊的段階に達したときから、人の目の色が見えるようになりました。その人の内面の状況が色となって出るのです。
紫色の目だと殺人など犯した人がその色になるようです。
私にはこういう体験はないですが、聖霊による油注ぎを体験したことがあります。
聖書の御言葉とともなって、体に油のようなものが注がれたのが分かったのです。
その聖書の御言葉は「人を癒す働きに召した」という箇所でした。
その後数年して、そのように癒しが必要な人が現れました。
とても不思議な体験で、その人も私のような人が現れることを聖書の神を知らないうちから祈っていたそうです。

別の友人は、予言の賜物が与えられ、人の内面をずばっと当てる力が与えられました。
このように、神は御霊の賜物として、ある人の信仰の段階に応じて賜物を与えられます。
その際に注意しなければならないのは、悪霊も働くということです。
悪霊は、人が用いられる段階に達したと分かると、攻撃して、別の現象を起こすことがあります。

悪霊の主な攻撃の目的は、「気を散らす」ということです。
一つの事柄に拘泥させて、その人を本当の働きに関わらせないように攻撃するのです。
たとえば、牧師になろうとした瞬間から、性欲が異常に強くなることがあります。
牧師だけではなく、奥さんとか子供を非行に走らせるというようなこともします。
段階が進むことは、サタンにとって致命傷になりかねないので、芽のうちに摘んでしまおうというわけです。

それゆえ、霊的な現象は、2つの側面が同時に現れる場合があります。
よい面と悪い面と。
霊的な世界が見えると同時に、感覚が鋭くなるので、別の霊的な世界も見えてくる。
それに拘泥すると、よい面が消されてしまい、悪い面が気になってしかたがなくなる。
この解決法としては、堅い信仰をもって、直前で撃退するしかありません。

いったん体の中に入れてしまうと、悪霊は出て行くことがなかなかない。
神は地球をバンアレン帯という帯で有害な宇宙線から地球を守っています。
地球は宇宙の中においてエデンの園なので、エデンの園を破る力が働いています。
しかし、神はこのようにして守り、エデンの園を維持されます。
我々クリスチャンの体もエデンの園であり、その体の中に入り込んでそれをめちゃめちゃに破壊しようとする力が働きます。
肉体的な意味では、有毒物質や汚染物質を飲食しないことが必要です。
怪我をしたらすぐに消毒する必要があります。
そのようにして自分の体を守る必要があります。

霊的な意味では、聖書に堅くたち、異なる教えを入れないことです。
否定的な言葉や思想、惑わしを頭に入って巣ができないように御言葉によって撃退することです。
私たちは、必要なものをすべて与えられていますので、異なる教えが入ると、「違和感」を感じるようにできています。
聖書の御言葉を知っている人は、脳裏に神が御言葉をもって「違うよ」と教えてくださいます。

(2)
なぜキリスト教界において異なる教えに人々が惑わされているのでしょうか。
ずばり言うと「神を愛していない」からです。
私はこれを「すけべ根性」と命名しています。
人間に、神への愛がなく、神中心に考えることをやめると異なる教えが入ります。
たとえば、「自分の名誉」というおいしそうなケーキをサタンは出してきます。

それを食べてしまうと、その名誉が第一になって、それまで正統的な教えを信じていた牧師でも簡単にだまされるようになり、間違った方向に進みます。

「教勢」とか「金」「異性」など、神への愛とは矛盾するような動機が支配するようになればなるほど、人間は信じたいものを聖書と矛盾しても信じるようになります。

神は誠実な方ですから、真実を誠実に求める人に偽りが入ることを許されません。

頑固になって、「自分の野心」「すけべ心」というものを捨てなければ、神は「頑固への裁き」として偽りの霊にその人を渡されることがあります。

そうすると、その人は異端になります。

解決は、御言葉にしがみつくことです。自分の思いを捨てて、御言葉にただ聞くことです。
真剣に求め、神の栄光と神の御名が高められることをひたすらに求める人にどうして異端の教えが入るでしょうか。
キリスト教界の今の教理的な混沌はただひとえに、クリスチャン指導者が「傲慢になり、はじめの愛から離れた」ことにあります。
キリストの御心を求め、教派とか派閥とか人間関係など無視して、そういうものをすべて捨てて、正しいものをひたすらに求めるならば、混沌などあるはずがありません。
問題は、肉体、霊を問わず、「門が開いている」ことにあります。
悪霊には門を開いてはならない。
悪霊がおいしいご馳走を用意して誘惑した場合には、ノーをつきつけて、門前払いすることです。
そうすれば、いろいろ目が開かれるのです。
残念ながら私の友人でいっしょにやってきた人の中にも、自分の栄光を求め頑固になったために脱落する人がいます。
人生において何度か誘惑がありますが、その試練を乗り越えないと、正しい道には入れません。

 

 

2009年12月29日

 

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