科学と宗教は対立概念ではない


グレッグ・バーンセンによると、世界観とは、「自然科学によって試されておらず、それによってすべての経験が関係づけられ解釈される諸前提のネットワーク」である。

それゆえ宗教は、世界観である。

よく「こんな科学の時代に、宗教なんて信じているの?」という人がいるが、科学が発達すると、宗教が否定されるわけではない。

なぜならば、科学とは、「経験した範囲内のことしか言えないから」。

Aという物理法則と、Bという心理学の法則を結びつけ、何かについて総合判断を下す際に、その人は宗教家になる。

なぜならば、その物理法則は物理現象について説明でき、その心理学の法則は心理に関する現象について説明できるだけだから。

2つをつなぐ場合には、直感的判断に頼る以外にはない。

しかし、直感的判断は科学の方法ではない。

物理法則もしくは心理法則を使って物理現象や心理現象を説明することは科学的行為と言えるだろう(厳密にはいえないのだが)。なぜならばそれは、科学的方法であるところの論証的判断だから。

ある人がビルから飛び降りて自殺した場合に、その人が地面に激突する軌跡について物理法則で説明できるし、そのような思考や判断は科学的といえる。

またその人がなぜビルから飛び降りたのかについて説明する場合に、その動機に関して心理学の法則を適用できるかもしれない。「これこれこういうPTSDがあると、自殺する傾向が高まる」という心理学的法則を用いて、その人の動機を判断することは科学的だろう。

なぜならば論証的だから。論理で積み上げて結論を出すから。

しかし、「戦争でPTSDを負った帰還兵が飛び降り自殺することが多い。だから戦争は反対だ」という判断を下す場合に、それは、宗教的判断になる。

「PTSDを負った帰還兵が飛び降り自殺する」という事実を物理法則や心理法則で説明できても、「戦争反対」という結論を導き出すときに、論証的ではなく、直感的判断を下しているから。ここでは、いかなる科学法則も適用できないから。

「自殺は悪いことでしょう」という判断は、宗教的である。

自殺の善悪を自然科学では決定できない。

「人間は自殺すべきではない。」という価値判断を下す際に、我々は、「自然科学によって試されておらず、それによってすべての経験が関係づけられ解釈される諸前提のネットワーク」を利用せざるを得ない。

だから、人間は誰でも世界観、つまり宗教をもっており、それを利用して日々生活している。

科学がどんなに発達しても、倫理や価値観など「自然科学によって試され」ることのできない領域は不可避的に存在するので、我々は宗教から離れることはできない。

科学と宗教を対立概念として捉えることはできない。

 

 

2010年9月13日

 

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