ハッピーファミリー


イエスは、こういわれました。


「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」

イエスのためであれば、家族も捨てることができなければならない。神とは我々の主であり、我々が神の主ではないのです。だから、自己犠牲というものは本当の神に対しては絶対的に必要です。

猫が理由で離婚する人がいます。猫は嫉妬深い性質を持っており、猫が中心となって配偶者が嫉妬することがあるらしい。

キリスト教が家庭の中に入ることは、きわめて重大な事件です。なぜならば、家族の一人が、家族以上に神を大切しはじめるからです。

すると、家族は妬みを抱きます。クリスチャンになると、家族の中で異物が生まれたということになります。これをつぶそうと、家族のメンバーの誰かがさかんに信仰をくつがえそうとします。

そこで家族を神以上に大切にすると、自分の全体がおかしくなります。人生全体が狂ってきます。

ですから、いわゆる「ハッピーファミリー」のようなもの。よく住宅のTV宣伝に出てくるような幸せな家族の姿というものは、クリスチャンには与えられないことがおおい。もちろん、全員の信仰が一致しており、みなが神に献身しているならばありえますが、そうではない場合には、無理です。

「家族だから仲良くやろう」とか、べったり自分にまとわりついて、頼ってくる家族がいる場合、その人々に付き合うと、別の霊が働きはじめて、自分がおかしくなります。

だから、クリスチャンというのは、誰にも何にも依存しないと心に誓わなければならないのだと思います。

私の家族の場合、なぜか神が一番かわいがっている孫を遠くに引き離すというようなことをなさる。

私の母にとって孫は本当にべったりだったので、残酷だなあと最初に思いましたが、しかし、そういうことが必要なのだと思います。

神は人間の幸せのために働かれるのではないということが分かります。

ハッピーファミリーと出会うと、異質なものを感じます。もう本能的にこれはおかしいと分かる。

だから、拉致被害者の横田さんは大変お気の毒ですが、しかし、あの家族は、神様からあのような試練を与えられたのだと私は思います。

この地上は、人間の幸せを成就するためには動いておらず、神の計画のために動いている。そして、その計画に自分をどれだけ合わせられるかが訓練の目的なのだと思います。

だから、最初から、人間は誰も信頼できないし、頼ってはならないし、甘えてもならない。

「人間に信頼できないというのはさびしいことだ」という意見もあるでしょうが、私の信仰生活の中で、ずっとこのような考え方をするように導かれてきました。

人間に頼り、人間同士で甘える付き合いを神は嫌われる。

たとえ夫婦であっても、一人一人が神に目を向けて何よりも神を愛する姿勢を持たない限り、祝福はされないと思います。

互いに向き合って「愛」を表現するのは、映画やTVの世界の話であり、あれは現実の誤解、錯覚、プロパガンダであって、まったくクリスチャンには通用しない。

 

 

2010年5月4日

 

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