字義的解釈と象徴的解釈の区別27


<Q>
安息日は決まってないと言う事は日曜日はどうゆう日なのか。以前、改革派の牧師さんが、若い教会員達は日曜日になると、ちよっと用事があるとか言って礼拝を休む、と言ってグチをこぼしていましたが。そしてこの日曜日こそ最も大事な日なのに、と言っていましたが。日曜日の礼拝は律法では無いから休すまず出ろとは言いませんが、逆に全く出ないのも問題で。先生は日曜日の礼拝をどう解釈されてますか。私は三日後の十時半に復活されたので特別な日と解釈していますが。この曜日がキリスト教のスタートならば、教会はキリストの花嫁なので夫であるキリストについて行くのは当然だと思うのですが。又は、六日間働いたら七日目に休まなければならない、からなのか。お願いします。

<A>
安息日は決まっていないというのではなく、毎日が安息日なのです。
日曜日に礼拝をするというのは、一番みんなが集まるのに便利であり、また、復活の日という意味においてその日にするというのがふさわしいからです。

礼拝を守るということは重要です。ちょっとしたことで休むというのは考え物ですが、しかし、それは聖書において日曜日が定められているからというわけではありません。
どこにもそのような記述はありません。

今日、土曜日に礼拝をしないとよくない、という人々もいます。安息日が変化したとは聖書に述べられていないから、と。じゃあ、安息日厳守であるならば、月の初めの日も安息日にすべきです。聖書に述べられていますから。また、安息年も守らねばなりません。7年に1年まるまる休まねばならない。しかも聖書は民族全体にそれを要求している。ということは、聖書を国家的に適用する時代になれば、日本人全員がまるまる1年休むのか。

高炉はどうなる?高炉は1度止まれば、再開は非常に難しいらしい。

安息日は、旧約聖書において、キリストにある平安と休息を象徴するために示された「影」であり、本体であるキリストが登場された今、そのような戒めに拘束力はありません。

キリストにあって、私たちは常に安息の中にいる。

日曜礼拝の厳守は、一つの人間の便宜のためのスタンダードです。

安易に休むとだれてきて、秩序が乱れるという問題がある。それに、そういった休む人々というのは、その他の面でも信仰を真剣に考えていないことからきている。

日曜日に守れなければ、教会は月曜日や火曜日に代替として礼拝を行うべきです。

いや、むしろ、私は宗教改革時代のカルヴァンのように、毎日礼拝を行えばよいと思います。

礼拝堂はつねに開けておき、いつでも来れるようにする。

今の日本のように閉鎖的なイメージを持たせる会堂では人が来ません。

礼拝が終了と同時に、扉を開けて、送り出すというアメリカ式がよいと思います。

 

 

2007年2月4日

 

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