万物は神のメッセージである(訂正版)


(1)
私の思想を構成するいくつかのポイントは、超自然的に与えられたものである。

それは、自分で編み出したものではなく、神の賜物である。

聖書の教えは、聖霊の内的照明がない限り、「腹に落ちない」。

聖霊の示しがなければ、聖書やこのHPなど、霊的な物を読んでもピンと来ない。

神は、ご自身がよしとされた人物に特別なことを教えられる。だから、もし聖書のある個所が理解できるようになったり、または、教理について悟りが与えられたりしたならば、それは神からの直接の示しであると考えてもよい。

神は、御心を示そうと考えた人に様々な方法で語りかけられる。

たとえば、先日たまたまつけていたTVのチャンネルで、怪獣ものがやっていた。

そのヒーローは巨大化して怪獣と戦ったのだが、その際に民家などを破壊して、人々から顰蹙を買っていた。

彼がひとりふてくされて「みな俺のことを悪く言っている。俺の側に立つ人はいない」とつぶやいたところ、茶の間にいた父親が、「おまえは、人が支持してくれなければ何もできないのか?誰も賛同者がいなくてもおまえは怪獣と戦うべきではないか。そんな人の顔色をうかがっているおまえは、半端者だ!」と一喝した。

これを見ていて、なぜかこれは自分に向けて語られたような気がしたのである。恐らく、神が私に見せ、戒めを与えられたのだろう。

このように、神は様々な形で我々に御心を示してくださるのだ。それゆえ、現代において預言がないという人々に対して私は反論したい。神は、様々な者を通じて御心を示される。それは聖書に限定されない。

すべての預言は、吟味される(原語では「疑わ」われる)べきものである。

「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」(1コリント14・29)

これは、聖書にしたがって吟味せよといっているのである。2、3人が自分の知恵を出し合って吟味せよというわけではない。聖書に基づいてそれが「聖書的であるかどうか」を調べよ、という意味だ。

預言があったからと言って、それを鵜呑みにせよというわけではない。どのような預言でも聖書に照らしてそれをチェックしなければならない。なぜならば、サタンは実に巧妙であり、神の名を使って偽りを吹き込もうとするからである。

(2)
神は人のちょっとした言葉を用いられる。

私がヴァン・ティルについて知ったのは、神学校に行ったある先輩の言葉による。ほんの少し触れただけだったが、ヴァン・ティルの名前は私の心に留まった。

また、R・J・ラッシュドゥーニーについて知ったのは、神学校の友人が卒論で彼の文献を引用していたのを見た時だった。

それから、ラッシュドゥーニーの名前が頭にずっとひっかかっていた。その年の夏に、アメリカのフロリダ州に行って、長老教会の書店で彼の名前を見つけて、その本を購入したのが私のミニストリの始まりであった。

神はある人を導かれる時に、誰かのちょっとした言葉を用いられる。神の働きにおいて、長々しい話は必ずしも必要ない。

(3)
いくつかの教えを受け入れる際に、神は私に不思議なことを行われた。

ある晩、神の御名の重要性について、友人のK氏から事務所で説明を受けた。帰宅して、自分の部屋の中でぼんやりしていると、風も地震もないのに、本棚から一冊の雑誌が目の前にポトリと落ちてきた。

拾ってみると、ラッシュドゥーニーの宣教団体の機関紙で、そこに"Name of God(神の御名)"という題名の論文が載っていた。御名については、ラッシュドゥーニーも重要性を強調しているということを神が示されたとしか思えない。

(4)
主は、我々に御心を示される際に、実に様々な方法をとられるのである。

いや、万物が神の自己啓示である以上、我々は、あらゆるものに神の示しを見なければならない。

すべてのものを神からのメッセージとして受け取らなければならない。

「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。
蟻には首領もつかさも支配者もいないが、
夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。
なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。
だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。 」(箴言6・6-11)

 

 

2005年11月19日

 

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