キリスト教の未来のために


今、ファンダメンタリズムが死のうとしている。

なぜか。

教えが間違っているからだ。

ファンダメンタリズムは、ダービーのディスペンセーショナリズムに乗っ取られた。

ディスペンセーショナリズムの特徴は、主に

1.無律法主義

2.切迫再臨

である。

1.

ディスペンセーショナリズムは、「今は恵みの時代。律法の時代ではないから、律法を守る必要はない」という。

そのため、クリスチャンは何が義務であるか分からなくなっている。

私は、ずっと福音派の教会の教えのもとで育った。大部分改革派の教えだったが、律法に関しては、ディスペンセーショナリズムに汚染されていた。

牧師は「姦淫してもいい、殺人してもいい。しかし、すべてが益となるわけではない」と言っていた。

嘘?ちがう。もし私が嘘を言っているというなら、証人がいるから、当時そのような説教をしていたと証明できる。

この牧師は、意図的に姦淫や殺人を勧めていたわけではない。

頭が混乱していたのだ。

これは、ディスペンセーショナリズムがはびこるようになった近現代の教会のほとんどすべての牧師が体験してきた混乱だ。

パウロは、矛盾したことを同時に言っている。

一つは、「我々は律法から解放された」と、
もう一つは、「律法は確立された」と。

この2つの教えが同時に書かれているから、混乱したのだ。

宗教改革においてカルヴァンは、この点を整理した。だから、カルヴァン主義にしたがえば混乱はないはずだ。

パウロが律法から解放されたと示したのは、「律法の刑罰から解放された」と言い換えることができる。

刑罰を与える律法は、我々の前にはない。我々は、罪を犯しても律法によって裁かれることはない。なぜならば、イエス・キリストが身代わりに死んでくださったからだ。我々の罪責はすべて帳消しになった。

しかし、我々の前から律法そのものが消えたわけではない。

「指導者としての律法」「生活の指針としての律法」は残っている。

パウロは、繰り返し「律法も言うように・・・しなさい」と述べた。

また「信仰は律法を確立する」と述べた。「御霊は律法を成就するためだ」とも。

だから、律法を廃棄されたと考えることはまったくできない。

ディスペンセーショナリズムは、時代によって律法が通用しないときがあると述べた。そしてそれが今だと。

「我々は律法の下にはない。なぜならば、今は律法の時代ではないから。我々は恵みの時代にすんでいる」と。

これによって、教会から指針が奪われた。

教会が混乱の中に叩き込まれた。

教会の中で、秩序の乱れが生じた。

クリスチャンの道徳が破壊された。

これは、長い間福音派の教会で暮らした私がつぶさに見てきたことだ。

道徳的にまだ「戦前の道徳教育によって、良心にひっかかりのある人々」が生きている間はよい。

しかし、戦後のビートルズ世代、ヒッピー世代以降、道徳が破壊され、善悪の基準が破壊された人々が、教会に増えるようになると、もうめちゃくちゃになった。

「ディスペンセーショナリズム」も「ビートルズ」「ヒッピー」もいずれも、イルミナティの攻撃である。

これは、偶然の現象ではない。教会を破壊するために、送り込まれた毒である。

私を指導した牧師は、戦前の人である。しかし、私は戦後の人間であり、我々がどのような影響を受けて育ったか知っているので、問題意識が違いすぎる。

彼は私のことが理解できなかった。

我々は互いにエイリアンである。

予想のとおり、今2000年代に入って、教会が戦後世代に支配されるようになって「相対主義」全盛となった。

ディスペンセーショナリズムとニューエイジの洗礼を受け、「客観的普遍的な道徳基準はない」と叩き込まれてきた戦後世代が、主導権を取るようになって、教会は壊れてきた。

力を失うのは当然なのだ。

2.
切迫再臨信仰は、クリスチャンから相続の概念を奪う毒である。

「明日携挙されるかもしれない」と考えていたら、実質的に家庭や職業について真剣に考えることは不可能である。

実際、切迫再臨を信じていた私は、人生の大切な時期を完全に逸した。

就職についても、結婚や家族建設についても、まったくビジョンがなかった。

私にとって就職は、苦痛でしかなかった。

「明日携挙があるというこの終末の時代に、どうしてこんな仕事をしなければならないのか!とおりに出ていって、福音を述べ伝えるほうが大切ではないか」と本当に信じていた。

完全に狂っていた。

福音伝道の基本は、職業を通じて世界を弟子化することである。

ただ福音のメッセージを伝えればよいというようなものではない。

伝道のパンフレットを渡すことも重要だが、聖書的な学校を作って、地域の模範となり、人々が先を争ってその学校に入れたがるようなそんな教育を行うほうが実質的である。

職業訓練も施されず、文化の発展に貢献せずに、ただその日暮らしの生活をして「明日再臨があるかもしれない」とパンフを配っているのは、オウムなどの新興宗教の人々と変わりがない(このような伝道者の活動そのものを否定しているわけではない。召された人々は教えを伝えることに専念しても間違いではない)。

こんな地に足のついていない活動では、何年やってもクリスチャンは信頼されないし、社会に影響を与えることはできない。

クリスチャンは、独自の世界観によって、文化を創造するべきである。

この長期的な活動にとって、切迫再臨信仰は異質である。

終末論において我々は騙されてきたのだ。

教会の牧師たちは、私のこの主張を理解できなかった。

いや、今でも理解できない。

だから、私は誤解されてきた。

教会の牧師はこのように伝える私に向かって「今の伝道よりも、遠い未来のことを心配しているあなたに不信感を持っている」とすら言われた。

だから、私は教会を去ることにした。

遠い未来の心配と現在の伝道活動は対立概念ではない。

どちらを取るかという問題ではない。

むしろ、遠い未来のことを心配せずに今の活動をやると、間違う恐れが大いにある。

私は、このように誤解されてきたが、人々が理解できる時期になれば、私のこの主張がいかに重要であるかわかるだろう。

私のこの問題提起は、キリスト教が生きるか死ぬかにかかわるきわめて重要なものである。

どうか心に留意してもらいたい。

 

 

2009年5月6日

 

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