クリスチャンは学問に限界を設定しなければならない


<O様>
メールをやりとりした中で、彼らと私たちには、どうしても噛み合わない部分、しかも決して無視できない大きな隔たりがあることを実感しました。

聖書の扱いが、根本的に違っているのです。

以前から頂いておりました「ミレニアム」のニュースレターをもう一度読み直して、さらに確信は深まりました。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ3:16)を引用しながら、結局「神の霊感」を否定・無視している。

歴史的批評的解釈(の一部)を批判しながら、実はそこに立ってしまっている。

確かに、恣意的解釈や自分勝手な「読み込み」は、断固として退けなくてはなりません(みことばは「ロゴス」であり、「レーマ」でもあるので、神様からごく個人的なメッセージが与えられることは否定できませんが)。その意味で、絶えず自己吟味が必要ですね。

しかし、その自己吟味が、「聖書学」と称する学問を基礎にしてしまってはいけない。

「聖書はすべて、神の霊感によるもの」なのだから、読者にも「神の霊感」が欠かせない。

御霊による照明なしに、みことばに向かっても、神様からのメッセージを正しく聞き取ることはできない。

したがって、聖書の正しい翻訳や解釈は、ノンクリスチャンにできるはずがない。

ところが、「聖書学者」の名の下に、ノンクリスチャン(いや、自分はキリスト者だと言うかもしれないが、天地創造も、十字架も復活も、使徒たちの行なった奇跡も「神話」として一切否定するリベラリストたち、例えば荒井献氏や青野太潮氏など)の説が大手をふってまかり通り、教役者も信徒も、何の疑問も抱かずにありがたく拝聴して、なんと、それを「信仰」の拠り所としている。

大手出版社やNHKは飛びついて一般大衆に普及活動を行なう。

大衆は安心する。そうか。神様なんてのは所詮イワシの頭なんだ。イエス・キリストの復活ってのは、「イメージの想起」なんだ。etc.、etc.・・・

学問や法体系、日常生活の営みとキリストは決定的に分離される。自称クリスチャンが先頭に立って分離しなくてはいけないと説いてまわる。

実に困ったものです。

踊り回る450人を前にして、水を満たしたかめを持って立ち向かわなくてはいけないのですね。

<tomi>
全面的に賛同いたします。

彼らは信仰から外れてしまいました。

神の言葉を実質的に無効化しました。

もはや彼らの信仰は聖書に基づくものではありません。

歴史的批評的解釈を正統的と彼らは言いますが、実質的にそれは歴史的でも批評的でもなく、単なる不信仰の体系になってしまいました。

イザヤは複数人いたとか、エリコの城壁は自滅崩壊しなかったとか、いわゆる科学的な証拠を理由に拒絶しています。

こうすることは、科学的には正しいかもしれませんが、しかし、信仰的には罪です。

なぜならば、聖書は、聖書の自己証言を最高権威としなければならないからです。

しかし、彼らは科学的事実、考古学的事実、文献学的事実、本文学的事実などを聖書の自己証言よりも高いところにおきます。

そうすることによって、結局、信仰のために学問をしていたはずが、自分と人々を信仰から引き離すことになった。

ミイラ取りがミイラになった。

こういったサタンの罠にはまったのです。

私たちは、これらの過去の人々の失敗から学ばねばなりません。

私たちは、「聖書が、私に今すぐ土を食べろ、と命令したら、すぐに土を食べるべきだ」という原則を徹底化すべきです。

理屈はいらない。盲信といわれようがかまわない。

なぜ?

「神の」言葉だから。

聖書は、我々を創造された絶対主権者である神の御言葉だから。

神は我々の全存在、所有物、一切の権威であるから、我々が彼に対して絶対的に服従するのは当然のことです。

たしかに、聖書本文について歴史的、批評的に研究することそのものは間違いではありません。

しかし、いつも限界を念頭におかねばならない。

その限界とは、「その学説によって信仰そのものが否定されるようならば、それを捨てるべきだ」という限界です。

つねに「聖書を科学よりも上位に置く」という原則を堅持する以外にありません。

 

 

2008年2月21日

 

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