クリスチャンには堕落した自然を発展させる務めがある


「その実を食べるとき、あなたの目は開けるでしょう」とサタンはエバに約束した。

実際、実を食べたときに、エバとアダムの目が開けて自分たちが裸であることに気づいた。

これは、裸であることが恥じるべき状態であり、それに気づいたと解釈してはならない。

神は人間を裸の状態で「完璧」と考えておられた。

だから、裸は本来恥ずべきものではなかった。

ヌーディストクラブは、そのため裸こそが人間にとって正常な状態と考える。

違う。

堕落後、裸は恥となった。

なぜか。

罪を犯したからだ。人間は罪を犯したので、自然のままの状態が異常になった。

つまり、人間は「着物を着ることによって正常になる存在になった」。

神は、彼らに毛皮を着せて恥を覆われた。

毛皮とは、犠牲である。

動物を殺して着せること。これは、イエス・キリストの十字架を表現している。

つまり、人間は、堕落前は、裸の状態、自然の状態が、完全であった。しかし、堕落してしまったので、裸の状態は異常になり、神の贖いによって覆われなければならない。

今、罪人である我々にとって、裸は恥を象徴する。

だから、巷に氾濫する裸体像は、恥なのである。

ギリシア・ローマ美術の裸体像は、その「裸こそ正常な状態」という自然主義思想から来ている。

聖書的な文化は、このような美術を堕落とする。

ギリシア・ローマ文明は、自然の状態こそ最善、だから、自然を損なう文明は悪ということになる。

地球温暖化論などもこのギリシア・ローマ思想から来ている。

聖書的な思想は、裸や自然はキリストの犠牲によって覆われる必要があるとする。

だから、ギリシア・ローマ思想が裸体礼賛するのに対して、聖書的思想は着物を礼賛する。

自然はアダムとともに堕落した。

だから基準にならない。

動物は、近親相姦、同性愛、子殺し、兄弟殺し、食糞などあらゆる堕落を行う。

グループの中で弱いもの、毛色の異なるものがいれば、排除し、殺す。

アダムの堕落後、人間だけではなく、自然も堕落していることが分かる。

我々人間は、福音によって内面から変わり、神の法にしたがって統治できる資格を得た。

だから、堕落した自然を統治し、それを回復しなければならない。

自然は規範にはならない。

自然を規範とするならば、世界は混沌化し、滅亡する。

文明の基礎は、それゆえ、キリスト教による回心しかない。

クリスチャンが文明を導く以外に、自然を堕落から解放し、さらに発展させることはできない。

「人間がいなくなることが自然にとってもっともよい」という鳩山は、フリー・メイソンの自然主義に犯されているのだ。

これらの自然主義者から世界を奪還する活動を始めよう!

 

 

2010年5月1日

 

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