異邦人が築き上げてきた神学を簡単に否定すべきではない


最近、日本のあるメシアニック・ジューのグループの間で、ニケア公会議への批判が高まっている。

キリスト教からユダヤ性を排除するきっかけとなったから、と。

たしかに、この時代、キリスト教からユダヤ性が排除されるようになったのは事実である。

その後、キリスト教は、ずっと律法やユダヤの習慣などを忌避する傾向が大なり小なりあった。

これは極めて大きな損失である。

最近ユダヤ人が聖書を研究するようになってから、このユダヤ性について新たな光が当てられるようになったのは喜ばしいことである。

しかし、注意しなければならないのは、たとえキリスト教が異邦人化され、異質なものに変わったにしても、それでも神は教会を愛して、真理を守ってくださったことを否定してはならない、ということである。

「ユダヤ性への理解」が、異邦人が築き上げてきた神学的成果の主要な判断基準ではない。

異邦人も旧約聖書を学び、聖霊に導かれてきた以上、彼らの仕事を正当に評価する必要がある。そうしないと、否定してはならないものも「ユダヤ性への理解がないから」という理由だけで否定することになり、非常に危険である。

「人類は2000年間ずっと騙されてきた」とか「初代教会以降、教会は誤謬の中を彷徨ってきた」とかいう発言に注意しよう。

そうしないと、我々は、神を偽り者とすることになる。なぜならば、2000年の間、神は教会がウソを信じるのを許容された、と実質的に述べているからだ。

ユダヤ性を無視したからというので、ニケア会議を全否定すべきではないし、ユダヤ人迫害の契機を作ったというので、ルターの業績を全否定すべきではない。

ユダヤ人クリスチャンが今信じている教えは、異邦人が2000年かけて築き上げてきたものの上に立っていることを素直に認めよう。

異端に共通するのは、「歴史の否定」である。過去の業績を無視して、まったく新しい教えを唱えているものを見たら、100パーセント誤謬であると考えてよいと思う。

 

 

2004年7月22日

 

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