回りを見るな(訂正版)


そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。
舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。
そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。
イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。(ルカ8・22-26)

クリスチャンの一つの目標は、目の前の問題や環境によって左右されることから解放される人間になることである。

心配性とか対人恐怖など様々な心の問題は、ノンクリスチャンに固有の問題である。

聖書において、陸や岩はイスラエル(新約においてクリスチャン)の象徴であり、海は異邦人(新約においてノンクリスチャン)の象徴である。

海は定まりがなく、いつも揺れ動いている。ノンクリスチャンは、確固とした自分の柱がないので、環境によって心がいつも左右される。政治家ならば、人気取りに走る。

しかし、クリスチャンは、陸や岩のように揺れ動かない。イエスは、嵐の船の中で眠っておられた。水が入ってきても目覚めなかった。

幼いクリスチャンは、まだノンクリスチャンの部分が残っているから、どうしてもぐらつき、ブレる。

しかし、様々な試練を通じて成長したクリスチャンは、ブレない。

私は心配性が残っているクリスチャンに対して「真中だけ透き通っていて、周りが曇りガラスになっている眼鏡をかけなさい」と勧める。

真中だけに神様の像が映ってその回りのことが一切ボケて見えれば心配することがない。

大切なのは、一つ。

神がどうお考えか?ということ。神がともにおられれば何が怖いことがあるだろうか。逆に、神がともにおられなければ恐ろしいことになる。

神の働き人がブレると、人気取りをやりだして、真理を曲げるから、最も有害である。

まっすぐに御言葉を解き明かし続けるためには、神の御姿だけを見て、回りに見える人間や状況を無視することである。

イエスのように、舟の中に水が入ろうが、弟子たちがパニックになろうが、まったく気にかけないことだ。

キリスト教界でも、「多数派につく」人々が多いが、そんな人は神礼拝者ではなく、人間礼拝者だから、教職を辞めたほうがよい。

 

 

2005年9月16日

 

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