間違った寛容に毒されている現代のキリスト教


(1)
若いころ純粋な信仰を説いていた人でも、老年になって棄教する人がいる。

ビリー・グラハムなど典型的だ。

デイビッド・チルトンも、晩年にフルプレテリズムを信じた。ゲイリー・ノースが異端宣告をした。

人間本当にどうなるか分からない。今信仰があっても、サタンは何らかのおいしいご馳走を用意するから、ひっかかると知らないうちに信仰を捨ててしまうということになりかねない。

聖徒の堅忍の教理はどうなったのだろうか。

昔、「晩年に棄教する人は、もともと救われておらず、クリスチャンのような外面を装っていたにすぎない」と考えていた。

しかし、ビリー・グラハムのように、熱心に十字架を伝えていた人がこうなってしまうとは。

恐ろしいことだ。

私は、自分を支えているのは、神のあわれみ以外の何物でもないと考えている。

自分で自分を支えることはできない。

サタンは、我々の浅知恵では対抗できない巧妙な仕掛けをする詐欺師であるから。

神が我々を見捨てられないことをただひたすら求め祈る以外にはない。

(2)
信仰を維持する上で絶対的に必要なのは、御言葉に対する謙遜である。

御言葉を疑わない。いかなる部分においても、どのような程度においても。

御言葉を神聖とせよ。それに手を触れてはならない。それからいかなるものも削り取ってはならない。

御言葉は基準であり、評価の対象にはならない。

御言葉をいじることはタブーである。

しかし、晩年に棄教する人々の特徴は、この点において、若い頃からあいまいである。

カルヴァン派においてすら、聖書は、科学や司法に関しては無誤無謬の御言葉とは言えないという教えにたぶらかされている。

聖書の中で「この部分だけは権威ではない」「この部分は権威である」と色分けできるのだろうか。

その色分けの基準は何か? 誰がそれを色分けするのだろうか。

人間がそれを色分けできるとすれば、人間が聖書の上に立つことにならないか。

これは、自然主義神学が陥ったのと同じ誤謬である。

19世紀にダーウィン進化論が登場してから聖書の記述に対する大きな疑いが生じた。

その際に、当時のクリスチャンはきわめてまずい対応をした。

「ダーウィンが正しいかもしれない」と疑ったのだ。

聖書をタブーとせず、聖書に疑問の隙間を作った。

少しでも隙間を作るならば、サタンは「絶対に」そこから火矢を打ち込む。

我々の心を疑念で燃やすために。

では、当時のクリスチャンはどのように対応したらよかったのだろうか。

「うるさい。聖書は基準であって、科学がどんなことを言おうが、聖書は正しいのだ!」と、半ば狂乱と誤解されるほどの反撃をすることだ。

一点でも聖書に疑念が生じれば、そこから「聖書は権威である」という至上命題が崩れる。

この命題がが崩れれば、キリスト教そのものが崩壊する。

なぜならば、人間が教えを取捨選択することになるから。結局、人間が究極的権威というヒューマニズム思想を認めたことになる。

ダムに一点の漏れがあってもならないように、聖書信仰において一点の欠けもあってはならない。

例えば、我々に進化論や宇宙論などにおいて、聖書の創造記事を疑いたくなる理論があったとしても、無視することだ。

「それは、原理主義じゃないのか?盲信ではないのか?」と尋ねられたら、「そうです。原理主義です。盲信です。」と答えるべきだ。

なぜ?

なぜならば、我々は神の僕だから。神の命令を無条件に聞くべきだから。

それとも、「いや、無条件服従という態度を取ると、周りの人々から不気味がられますよ。イスラム原理主義みたいだと言って。」と言うだろうか。

じゃあ、あなたもアダムとエバの仲間だ。

神は、アダムとエバに対して、「園の中央にある」「見るのによく」「賢くなりそうで」「食べるのによさそうな」実を食べるな、と命令された。

いかにも毒が入っているような外貌の果物を食べるな、と言ったのではない。

食べるのにふさわしい魅力的な果物を食べるな、と言われたのである。

人間の価値判断よりも、神の啓示を無条件で受け取ることがここで命令されているのがお分かりだろうか。

今のキリスト教教師たちが弱いのはこの点だ。

実証科学、経験科学を金科玉条のごとくあがめる科学主義に影響されたクリスチャン指導者たちは、「人間経験」を絶対と見るようになった。

ヒューマニズム教育の恐ろしい一面だ。

ビリー・グラハムの「神様のあわれみは広いのです。たとえイエス・キリストを知らなくても、いかなる自覚がない人でも、キリストの体に加えられているのです」という教えは、我々の道徳心をくすぐる。

「そうだなんて寛容な教えなんだろう。伝統的なキリスト教の偏狭さがない。すばらしい!」と対応したロバート・シューラーは、典型的な現代人を演じた。

あえて言おう。

神は偏狭である。

イエス・キリスト以外に道は存在しない。

イエス・キリストを経由しないで神にいたる道は存在しない。

人間の目でいかに心が狭く、卑しく、差別主義に見えても、クリスチャンはこの点で妥協してはならない。

聖書を絶対的権威として見なさい。

イエス・キリストを唯一の救い主として堅持しなさい。

それを拒む人がいるならば、我々は彼らを異端と呼ぼう。

 

 

2008年3月9日

 

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