クリスチャンは聖書を前提としなければならない


聖書は、一度たりとも、「聖書を前提以外のものとして扱ってよい」と述べていない。

聖書は、御言葉であり、前提である。つまり、疑いの対象外であり、それをありのまま土台として受け入れるべきである。

しかし、我々が受けた教育において、前提、疑いの対象外、ありのままの土台は、「人間理性」である。

人間理性によるチェックは最終的権威であり、それは聖書すらそのチェックをまぬかれないとする。

つまり、次の対立がある。

聖書 対 人間理性

どちらが権威か。

クリスチャンは、聖書を権威としなければならない。

だから、聖書の上に人間理性を置いてはならない。

人間理性が究極であるとする人々は、オーディションにおいて神に踊らせたり歌わせたりして審査する人々に似ている。

人間理性を究極とする人々は、神を試す人々である。

神は創造者であり、世界を無から創造された。

だから、神は基準以外ではありえない。神は審査員以外の場所においてはならない。

神が審査員であり、人間が踊ったり歌ったりするのである。

ヒューマニズムは、神と人間の地位の逆転であり、それゆえ、宇宙的革命である。

ヒューマニズムは、宇宙の主の座に人間を据える思想である。

それは、バベルの塔を作った人々の思想。

この世界の歴史の中心は、クリスチャンとバベルの塔の人々の戦いである。

バベルの塔の人々の思想は、聖書を前提とせず、人間理性を前提とする。

我々は、このような教育を受けてきた。

だから、聖書を信仰によって読まず、単なる古文書の一つとして非信仰的に読み、批評する。

聖書においてエリコの城壁は自己倒壊したと言われているのに、それを信じない。

考古学的証拠などを持ち出して信じようとしない。

こういう思考法を選択してはならない。

本当にクリスチャンとなり、救われたいならば、思考法からすべて徹底して聖書的にしなければならない。

聖書を前提とせず、論理などを究極とするならば、それはバベルの塔の人々に属していることを意味する。



 

 

2009年8月18日

 

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