敵を知るべきだ



私は一流と二流を分ける基準は、「哲学を重んじるか」という点にあると思う。

その道においてどんなに専門知識を持っていても、原理から考えられない人は、二流または三流だと思う。

例えば、○○学というのがあって、その学問の専門知識はあるが、その学問を「学問」というもの全体の中でどう位置付けるかについて考えていない人は、二流である。

芸術家でも、学者でも、一流の人は、哲学的な課題との関係で自分のやっていることを位置付けることができる。

例えば、マルクス主義にしても、マルクスは自分の問題意識の立て方を、それまで哲学史の流れの中で位置付けていた。

しかし、大きな流れをおさえずにただマルクス主義の世界しか知らない人、知ろうとしない人は、全体が見えていないから「盲信者」になる。

一流の学者は、自分が生物学をやろうが、建築学をやろうが、近代思想について大きな流れをつかんでおり、問題の所在を鋭く知っている。

そうやって、地道に一歩一歩積み上げているから、高度なレベルの応用が利くのだ。

全体像をつかまずに治療をする医者は怖い。痛みだけを見て、その根本原因を探ろうとせずただ痛み止めだけを出す医者は怖い。

痛み止めを処方されて飲んでいる間にガンが進行して死んでしまったということにもなりかねない。

全体像をいつもおさえるということを心がけない人は本当の意味で指導者になれない。

残念なことに、いわゆる福音派のトップの指導者の中にそういった全体を見れる人が少ない。

これまで直接話した中で、楽しい会話ができた指導者の一人は、舟喜順一先生である。自然法に関していろいろと質問させていただいた。

今日、神学校では、最も大切なことが教えられていない。

最も大切なこととは何か。

それは、ヒューマニズム哲学の流れである。この世界がどのようにして成り立っているかを知るには、ヒューマニズム哲学について知識が必要だ。

誰も教えてくれないので、私は、自分で勉強した。

本当は、神学校の先生は、みなヒューマニズム哲学がどのようにして世界を征服したかについて詳しく知り、それを神学生に教えなければならない。

なぜならば、敵を知らずして、戦うことはできないから。

神学生は、我々がヒューマニズムの教育機関において教えられたことの中でどれが正しくて、どれが間違っているか、聖書を基準として分別するための訓練を施される必要がある。

そうじゃないと、教会に毒麦が入るのを阻止できないから。

今日、教会のクリスチャンは聖書という基準を軽んじているために、それによって善悪の分別ができなくなっている。

だから、物事をどう解釈するか分からない。

なぜならば、神学校がそういう訓練を牧師候補者に施していないから。

私の学んだ神学校では、カウンセリングの教科書は、カール・ロジャース派の本であった。

神学生たちが騒いで、これは聖書的ではないということで、途中から教科書ではなく、批判対象の本になった。みんなでここがおかしい、あそこがおかしいと批判する授業になった。

いわゆる現代のフロイト心理学を土台としたカウンセリングを教会に入れてはならない。

フロイトは、神を捨てた世界の中において、「どうやって心を正常に保つか」を課題とした。

それまでは、罪責感は神への信仰の中で霊的なヒーリングにより消滅した。

しかし、西洋社会がヒューマニズムを信じ、キリスト教を捨て、神を捨ててから、罪責感やそれから派生する様々な心理的トラブルに対応できなくなった。

我々クリスチャンは、このように無神論を土台とした学問を無批判に受け入れてはならない。無批判に受け入れると、教会にサタンが入る。

教会にサタンが入り、徐々に教会をこの世と変わりがない世界に変えていき、ついに秩序を徹底して破壊する。

フロイト心理学を受け入れることは自殺である。

私は、牧師や神学者などキリスト教の指導者こそ、ヒューマニズム哲学について徹底して理解する必要があると思う。

(2)
これまで教会は、思想的分別を十分に行わなかった。

だから、バルトが福音派、ファンダメンタリズムの中に深く浸透しているのだ。

バルトを聖書から批判することが十分に行われているとはいえない。

私よりも年上の先輩クリスチャンに共通する欠点は、安易に世俗思想を導入する点である。

我々の両親の時代の人々は、合理主義的な考えの持ち主が多いように見える。

しかし、我々よりも10年上くらい、つまり団塊の世代あたりから、非合理主義的思想の持ち主が増えたように思う。あるクリスチャンの友人はクリスチャンでありながら、物の考え方はヘーゲル主義だ。

彼は、弁証論によって考えることを勧める。だから、命題と反命題の対立的な思考を嫌う。

ある人が「○○主義は間違っている」と言うと、「そうやって白黒はっきりつけるのはおかしい」という。

どちらにも良いものも悪いものも含まれているのだから、と。

両方を受け入れて、さらに高いものにアウフヘーベン(止揚)すべきではないか、と。

この弁証論的思考法を、フランシス・シェーファーは「絶望の境界線」と呼んだ。

ヘーゲルによってこの境界線が引かれてから、論理的思考法は死滅したと。

白黒はっきりつけることが悪であるかのように考えられるようになった。

だから、教会が異端と非異端を分けると、「心が狭い」と文句が出るのだ。

ヘーゲル主義とクリスチャンとは絶対に両立できない。

クリスチャンの世界は、真理に関して妥協しない世界である。だから、矛盾を受け入れることは絶対にできない。

我々の世代からは、さらに相対主義が入り込み、当たり前のようにクリスチャンの頭脳を占領している。

非聖書的なものを払拭するために、我々は敵の思想について詳しくなければならない。

 

 

2008年5月30日

 

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