御名を唱えることについて


<N様>
初めまして。Nと申します。いつも「ミレニアム」を拝見させて頂いております。
私は、聖書に書かれている神の存在を信じているものです。しかしどのような宗教団体にも
所属しておりませんのでクリスチャンではありません。
(正確に言うと、エホバの証人と聖書研究を行っていた事がありますが、ものみの塔の
団体の偽善性と悪魔性を知ってからは関係を絶っています。)

そこで管理人様の貴重なお時間を頂いての質問なのですが、聖書に書かれてあった
神の名前(ヤーエ、ヤーウェ、ヤハウェ?)を唱えて祈る事は間違いなのでしょうか。
我々人類がすべて罪びとであり、イエスキリストを通さないといけないという理屈は
分かるような気がしますし、管理人様の三位一体を、家族や法人に例えたご説明も
良く分かります。

それでもやはり神の名前を唱えることは控えるべきなのでしょうか。
(そもそも神の名前の正確な発音が分からないのも問題だとは思いますが。)
また、聖書から神の名前が置き換えられている現実については、どう思われますでしょうか。

お時間がありましたら、お目を通して、真理を教えて頂けると幸いです。
毎日、あのように精力的に記事を載せている管理人様に感謝いたします。

<tomi>
メールありがとうございました。

さて、神の御名を唱えることは間違いではなく、むしろ聖書において奨励されています。

御名を唱えることは、審判者として神を呼ぶことを意味します。

つまり、私たちは、議論を尽くしても、決着がつかないことがあります。

その場合に、最終的には、神に判断していただいて、どちらが正しいかを決めていただくのです。


ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。 (1テモテ2・8)

誰を最終的な決定者にするのか。

それが、その人にとっての神です。

進化論論争において、最終決定を聖書におかず、学説とか裁判とかに求めるならば、その人は、科学や裁判所が神であると告白していることになります。

本当のクリスチャンとは、神の言葉である聖書を最終権威とし、聖書が語っていることで満足します。

聖書では、「6日で世界が創造された」と言っているのですから、「ああ、そうか。分かりました。これ以上、議論しません。」といわねばならない。

それを「いや、聖書はそういっているかもしれないが、私は○○博士の学説に基づいてこう思う。」と言うのでしたら、それは、もはや聖書を神の言葉と認めておらず、世俗の学問を神としてあがめていることになる。

だから、進化論者のクリスチャンというものは存在せず、6日創造説を取らないクリスチャンというものもの存在しません。

クリスチャンとは、神と契約を結んで、「あなたが私の主であり、最高権威です」と告白した人です。

「進化論のほうが正しいと思う」などと言っているのは、「私は契約を捨てました。だから、救いからもれてもかまいません」と公言しているのと同じです。

偶像礼拝者が救われることはいっさいありません。

律法を捨てる人も同じです。

兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。 (ヤコブ4・11)

「殺人者を石打刑に処すのは残酷だ。」と言う人々は、実はクリスチャンではない。

律法を裁いているからです。

自分が上に立って、神の言葉を裁いている。

究極の傲慢と言うべきでしょう。

聖書において、神の御名YHWHが「主」に置き換えられているのも問題です。

御名は御名として力がある。

それを人間の思惑で封じ込めてきた。

どのように読むかたしかに分からなくなっています。

しかし、御名にはほかにもエル・シャダイとか、エフイェとか、エゴー・エイミなどがあります。

実は、日本には昔から御名を唱える習慣が残っているように思います。

伊雑宮の参拝者で、「弥栄(やさか)」と呼ぶ人々がいるそうです。

私は、これは、もともと「ヤーウェ」ではなかったかと思います。

漢字の弥栄は「ヤエイ」と発音できます。

北陸は、称名信仰が盛んですが、おそらく昔御名を唱えていた人々があの地域にはたくさんいて、その名残が仏教における称名に変化したのではないかと思っています。

実際はどうなのか誰か調べてもらいたいものです。

 

 

2009年11月14日

 

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