ラッシュドゥーニーにオーバン・アヴェニュー神学の萌芽がある


<O様>
キリスト教界・教会に限らず、社会全てが無秩序・混迷を深めているので嘆かわしい限りです。
医療の現場は、もう滅茶苦茶になっていますし、毎日の通勤では「良心」「良識」が死語になってしまったのを痛感しています。
いかにもプレ・ミレ、ア・ミレが描く「終末」です。
そして「世の終わりが来た!」「見てご覧なさい、どんどん悪くなっていくでしょう」と叫ぶばかりで、手をこまねいて何もしない。
有能な若者を洗脳して「献身」させる。社会からも学問一般からも遠ざける。
ディベートやディスカッションを学ばないから情報を検索しても、それを整理して「意見」をまとめられない。
コーチング、長所を伸ばすのは結構だが、弱点や短所に目をつぶる/つぶらせるから、いざという時に立ち往生で金縛り。
そんなのが何人集まっても建設的な会話は成立しない。ただ「何でもあり」のカオス状態出来上がり。改革も進歩もあったものじゃない。
・・・という状態で「青年会」?何やっているのだか。
さらに、神学を学ばないから思索も考察もできない。
帰納的聖書研究も、文脈を無視してこじつけで終わってしまう可能性が非常に高い。Newspaper exegesisがすぐ入り込む。
塩気を失った教会は、世を光として受け狙いのイベントに終始する・・・
ヴァン・ティル、ラッシュドゥーニー、ノース、バーンセン・・・しかし、アメリカでもこれらが多数意見にならないのは、目くらましがよほど強烈なのでしょうね。
これらの著作をはじめて読んだとき、富井先生がおっしゃるのと同じ感動をおぼえました。
自分の疑問に対する答えが、正に手に取るようにそこにあったからです。
しかし、最近、特にラッシュドゥーニーで感じるのですが、例えば「聖書律法綱要」の記述が当たり前のことに思えてしかたがないのです。
素直に聖書を読んで、毎日普通に生活していて、全く、ラッシュドゥーニーの言うとおりではないか?どこが違っているのか?、と。

そこで、本日御教示頂きたいのは、ラッシュドゥーニーの「業の契約」理解です。「組織神学」を入手できたので読んでみたのですが、私の英語力と神学的素養の両方が貧困なため、彼の言わんとする「『業の契約』という概念は致命的な誤りである」の論説、特に「業」と律法のくだりが複雑で理解できません。要は、アダムに与えられた命令も律法であって、律法は恵みとして与えられたのだから、結局最初から恵みの契約だ、ということなのでしょうか。

<tomi>
おっしゃるとおりです。
ラッシュドゥーニーは、実際そのように考えていたようです。
ですから、彼はオーバン・アヴェニュー神学を創始したともいえなくもないです。
この点が彼の非常に残念なところです。
これは異端を生み出す可能性を秘めた非常に危険な傾向だと思います。

たしかに、アダムは創造のときに恵みの中にいました。

神はアダムを恵まれた。

しかし、この恵みと「恵みの契約」の恵みとはまったく質が異なります。

いくら恵まれたといっても、アダムには被造物を代表して、被造世界全体を永遠の祝福に導く「契約の主役」としての務めがありました。

つまり、アダムが神の御前に完全な服従を貫けば、彼に連なる全人類だけではなく、全被造物も永遠の祝福の状態に導きいれることができたはずでした。

それが、「生命の樹」の意味です。

神の法を守るという条件を満たすことによって、彼は被造物の王となれたはずでした。

しかし、それができなかった。罪を犯したからです。

そこで、神は、別の人間を立てられた。

なぜならば、神の計画は変わらないからです。

つまり、「人間が統治する完成された被造世界秩序」こそ神の創造の目的であったからです。

天使がトップに立ってもだめで、神がトップに立つのもだめです(もちろん、人間の上に神がいることは事実ですが)。

あくまでも、神の目的は、「人間に」被造世界を任せるということです。

だから、キリストは人間にならなければならなかった。

アダムはその務めに失敗したので、神が受肉して人間の頂点に立ち、失敗した人間の代わりに律法を守り、永遠の報酬を得られるべく完全な服従を達成された。

これによって、アダムの使命は果たされたのです。

それゆえ、人間は、キリストと契約を結んでそのキリストの体であるエクレシアに加わることによって、キリストと一体になり、キリストの功徳をすべて受け取ることができる。

我々は罪人でありながら、被造物の頭となり、新しい秩序の頂点に君臨できた。

ですから、神の目的「人間による完成された被造世界の出現」は、キリストにおいて、達成された。

だから、我々が目前に見ている世界とは、人間であるキリストの王国なのです。その王国の支配者としてクリスチャンも参加している。

だから、クリスチャンは、今、新天新地における王なのです。

しかし、もし神がアダムと最初に結んだ契約が業の契約ではなく、恵みの契約だったならば、アダムはエデンの園において失敗しなかったということになる。

あれが恵みの契約であるならば、今日のクリスチャンと同じように、罪を犯しても十字架の代償によって赦される。

ということになると、「アダムは、契約の主ではなかった、それゆえ、被造世界を祝福に導く務めはなかった」ということになってしまう。

すると、なぜキリストが受肉しなければならなくなったかということも理由がなくなる。

だから、これは大きな神学上のミスになるのです。

つまり、受肉の必要性がなくなるということ。

もう一つ大きな欠陥は、もしアダムの契約が業の契約ではなく、恵みの契約であったとしたら、アダムが死を宣告され、エデンの園を追放されたのは一体何だったのか、ということになる。

人類に死が入ったのは、罪を犯したからです。

恵みの契約の中にいたアダムが失敗して死に至るならば、今恵みの契約の中にいる我々も同じように永遠に滅んでしまうのか、ということになる。

アダムによって人類に死が入ったのは、業の契約だったからです。

恵みの契約では死は入りません。

なぜならば、代償があるから。

アダムはキリストの代償によって恵みの中に留まり続けることができたでしょう。だから、死ぬことはなかったし、エデンの園を追放されることもなかったでしょう。

我々クリスチャンは、恵みの契約の中にいるので、罪を犯しても、キリストの犠牲のゆえに、エデンの園の中にい続けることができます。

ご理解いただけたでしょうか。

 

 

2009年12月6日

 

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