司法律法を無効化する人間は裁きを免れない3


以上のように述べると、ある人々は次のように言う。


再建主義者は、自律理性を否定する。これは、「医者の処方を拒否し、薬を飲まず、神癒にだけ期待する狂信者」の論理だ。

完全な誤解である。

我々はそんなことを述べていない。

我々は特別啓示(聖書による啓示)と自然啓示(自然による啓示)を分けなければならない。

そして、特別啓示を自然啓示の上に置くべきだ。

特別啓示に関しては、経験主義は通用しない。聖書を疑うことは許されない。聖書を疑えば、どこが神の言葉で、どこが人間の言葉であるかを「人間が」決定することになり、結局、聖書啓示は破壊される。

しかし、自然を通じて啓示される領域に関しては、経験主義を適用すべきだ。医学や自然科学においては、ドグマや迷信を疑い、実験観察によりデータを集め、そこから普遍的な法則を発見し、それを応用すべきだ。

ただし、もしその自然科学的経験主義的知識が聖書啓示と矛盾するならば、聖書啓示を優先すべきだ。

例えば、経験的に子供が処女から生まれることはありえない。

しかし、聖書が「イエスは処女マリアから生まれた」と宣言しているならば、我々は、経験主義的知識を捨てて、この宣言を「問答無用に」信じなければならない。

リベラリズムは、この優先順位を逆転させた。

聖書啓示よりも自然啓示を優先した。

これは、アダムが犯した最初の過ちであった。

「食べるのによさそう」だからと、善悪の知識の木の実を取って食べた。

「食べるな」という特殊啓示を、「食べるのによさそう」という自然啓示によって無視した。

人間は、科学を発達させなければならない。なぜならば、「地を従えよ」という文化命令があるから。近代経験科学の祖フランシス・ベーコンは、この文化命令を科学の動機として位置付けた。

しかし、その科学が、聖書啓示よりも優先させるならば、それは、神への反逆になる。聖書の一部であっても、そこから何かを取り去り、疑いの目を向けることは絶対に許されない。

 

 

2007年8月24日

 

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