律法はいのちを与えないか?17


<LUKEさん>

>アダムの子孫であるノンクリスチャンは、わざの契約の中にいますので、生まれながらに失敗者であり、クリスチャンにならない限り、永遠のいのちの相続にあずかることはできず、むしろ、その罪のゆえに永遠の滅びの中に入れられます。

このふたつの命題から、旧約のユダヤ人の立場が曖昧なのですが、彼らは立場的には非ユダヤ・ノンクリスチャンとは違うと言うわけですね。法的には救われていると(=キリスト族にある)。これがよく分かりません。アダム族とキリスト族は「生まれ」の問題ですから、私の理解ですと、旧約の民はアダム族であり、聖霊を私たちの意味で受けていないとなるわけです。ですから私たちの意味でいのちの御霊の法則に従い得ない、よって律法を守り得ないわけです。富井さんは、「彼らは律法を守った⇒聖霊を受けていたはずだ」という論理ですね。私は「いのちを得ている⇒(いのちの御霊の法則に含まれる)律法を守れる」となるわけです。

しかしもしそうであるならば、なぜパウロはあれほどにユダヤ人の救い(=イエスを受け入れること)を願ったのでしょうか?富井さんの説明ですと、<イエスを受け入れる≠聖霊を受ける>となりますね。私の聖霊との関わりの理解はその二面性です。「外なる満たし=経綸的な力を得ること」と「内なる満たし=いのちを得るること」と区別し、旧約のユダヤ人は前者であると考えています。またパウロ自身の証で「自分は律法の義では問題ない」と言いながら、「律法はなし得なかった」と言う訳です。それは前の契約に欠けがあるからだと。

<tomi>

「アダム族とキリスト族は「生まれ」の問題ですから、私の理解ですと、旧約の民はアダム族であり、聖霊を私たちの意味で受けていないとなるわけです。ですから私たちの意味でいのちの御霊の法則に従い得ない、よって律法を守り得ないわけです。」

まず、すでに述べたように、旧約の民は聖霊を受けていたという聖書個所を挙げました。

そして、その具体例として、ザカリヤとエリサベツが律法を守っていたと聖書が証言している個所を挙げました。

聖書は、LUKEさんの推測とは逆に旧約の民が聖霊を受け、律法を守ったと記しているわけです。

くどくなりますが、もし聖霊を受けていなかったら、聖書を読んで悟ることはできません。

もし彼らが聖霊を受けていなければ、神は、盲目の民にあえて聖書を与えたということになる。

しかし、神はイスラエルに対してそんな意地悪なかたではなかった。

イスラエルは、宝の民だったのです。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民である」(申命記7・6、14・2、26・18)



「富井さんは、「彼らは律法を守った⇒聖霊を受けていたはずだ」という論理ですね。私は「いのちを得ている⇒(いのちの御霊の法則に含まれる)律法を守れる」となるわけです。」

これっておかしくないですか?

「いのちを得ている⇒(いのちの御霊の法則に含まれる)律法を守れる」という理屈が成立するならば、

律法を守っていたと聖書が証言するザカリヤとエリザベツは、いのちを得ていたと結論するのが当然ですよね。

LUKEさんの理論でいけば、旧約の民で律法を守った人は一人もいないはずだが、聖書は、彼らが律法を落ち度なく守ったと証言している(ルカ1・6)。

そのほかにも、旧約聖書が無数の個所において彼らが聖霊を受け、聖霊に従って行動したこと、聖霊の導きを受けていたと述べていることをどうやって説明するのでしょうか。


「しかしもしそうであるならば、なぜパウロはあれほどにユダヤ人の救い(=イエスを受け入れること)を願ったのでしょうか?富井さんの説明ですと、<イエスを受け入れる≠聖霊を受ける>となりますね。」

旧約の民は、割礼を受けて、神の御民になった。御民とは贖われた民であった。彼らは、贖いを受けていたので、アダム族ではありません。

たしかにキリストは登場していませんから、彼らの贖いは不十分であったが、しかし、神はそれでも彼らを「無罪の民」として迎えて、ご自身の宝の民とされた。

神は、アブラハムについても、モーセの民についても、彼らの「未来を望み見る信仰」によって彼らを義とされたのです。

それとも、彼らは義認されていなかったとでも言われるのでしょうか。

アブラハムは、「神はその信仰を義とされた」と言われているのです。モーセの民は、小羊の血をエジプトの家の門に塗ることによって、赦された。つまり、義とされた。

旧約の民は、みな贖われた民であり、赦された民であり、義認された民だった。

だから、聖霊を受けた。

「御霊に属することは、御霊によってわきまえる」というパウロの証言が本当ならば、神殿や幕屋において賛美し、知恵の言葉や箴言、詩篇を語った、たとえば、ダビデやソロモンは、それを聖霊によって行ったはずですね。

実体としてのイエスを受け入れることがなくても、イエスを遠く望み見た旧約の民にも、聖霊は与えられていたのです。

実際、イエスがまだ生まれていない時に、ヨハネの父ザカリヤは、「聖霊に満たされて」預言をしたと言われています。

「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。
『ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、…』」(ルカ1・67−68)

旧約の民が、「聖霊に満たされていた」とはっきりと聖書は証言している!!!


パウロがユダヤ人の救いを望んだのは、「彼らが聖霊を受けていなかったから」ではなかった。

ユダヤ人の中には、外面的に割礼を受けただけで心の割礼を受けていない人々がいたと、エレミヤは証言しています。

「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。…
エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」 (エレミヤ4・4、9・26)

これと同じように、パウロの時代にも、外面的割礼を受けているだけで、心の割礼を受けていない人々がいた。

そして、彼らは、イエスを受け入れることをしなかった。

イエスを受け入れるには、聖霊を受けていなければならない。

「また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(1コリント12・3)

パウロは、これらの割礼だけ受けて、聖霊を受けていない人々が救われることを切望していた。

しかし、実際は、イエスを告白して救われた人々もユダヤ人の中にたくさんいたのです。

「彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。『兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰にはいっている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。』」(使徒21・20)

紀元70年の崩壊直前のエルサレムの規模を正確に知ることはきわめて困難ですが、8万から40万の人口があったと推測されています。

8万から40万のうちの幾万ですから、当時エルサレムにはいかにユダヤ人クリスチャンがたくさんいたか、ということです。

パウロがイスラエルの救いを望んだとしても、それが「だからイスラエルは霊を受けていなかったのだ」という証拠にはならないということです。

 

 

2005年10月14日

 

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