聖書は民族を尊重している


日本の福音派が反天皇制であり、思想的に左翼がかっているのは、米国の福音派が国際主義だからだろう。

ビリー・グラハムやパット・ロバートソンなど米国福音派の指導者がフリーメイソンであることから、当然その影響を強く受けている日本のそれもフリーメイソンの思想に影響されているのだろう。

日本の福音派による伝道が頭打ちなのは、日本民族を否定するからだ。

左翼のように、何か得体の知れない国際的連帯を求めて、日本民族の独自性や伝統などを軽視したから、信頼されなかったということだろう。

フリーメイソン、イルミナティは、世界統一政府の樹立を目指している。

そのために、彼らは21世紀を「国家解体」の世紀と定めているようだ。

これは、鳩山氏の施政演説の原稿を書いた平田オリザ氏がはっきりと述べている。

聖書をよく読んでいないクリスチャンも、フリーメイソン流福音派の教えに騙されて、国家解体に賛成する傾向があるが、聖書にはそんな教えはない。

たしかに、クリスチャンは、民族を超えて団結すべきだ。

しかし、だからといって民族を軽視してよいということではない。

イエスは、「すべての国民を弟子としなさい」と言われた。

「国民」を弟子とすることは、国民の独自性を失ってよいということではない。

なぜ国民や民族性は重要なのか?

それは、神の国とは、個人、家族、民族、そして、世界の順番で発展するからだ。

福音伝道のためには、個人がしっかりと御言葉を握りしめ、信仰を強く持たなければならない。

「いいかげんな知識や教理、生活でいい」としたら、家族を変えることはできない。

自分の信仰がぐらついていて、どうして人々に訴える力があるだろうか。

まず自分を確立しなければならない。

それは、完璧になるということではなく、「聖書信仰を絶対に変えない」と決意して、できるだけ努力するということだ。

信仰がぐらついたら反省して、神に悔い改めればよい。

まず、自分の信仰。

そして、次に家族。家族も自分と同じ強い信仰に変えなければならない。

それができたら、民族や国である。

今流行の、「神学なんてどうでもいい」という考えならば、神は絶対に影響力を拡大してくださらない。

なぜならば、神は「しっかりとした聖書に立つ信仰を広める」ことを我々に求めているのであって、いわゆる「キリスト教」を広めることを求めているわけではないからだ。

「弟子とすること」なのだ。神の目的は。

だから、「いいかげんな教え」を広めても無意味だ。

神学に関しては妥協は許されない。

聖書に対する忠実さ、厳密さがない福音伝道などありえない。

サタンは、この点で強く働いている。

多くの牧師や伝道者が、「聖書を勉強すると暗くなります。神学ではなく、愛です」みたいな教えに騙されてしまった。

こういう教えは、フリーメイソンやイルミナティの教えである。

彼らは、「教えにこだわるな。宗教はみな合同すべきだ」みたいな世界統一運動を推進している。

「内容はどうでもいい。形として一つになることが究極の価値を持つ」というサタンの教えを広めている。

騙されてはならない。

もし、教えの内容はどうでもいい、ということになれば、「聖書啓示にこだわる必要はない」ということになり、結局、「神は自分が作ったものでいい」ということになるのだ。

つまり、偶像礼拝。

エキュメニズムとは、偶像礼拝であり、サタン礼拝だ。

我々は、自分、家族、国家を固めずに、一足飛びに国際的連携を求めてはならない。

イエスは、まず自分の信仰を固めよ、と言われた。


だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7・24-27)


国際協調は、自分、家族、そして、国が「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者」となることの上にはじめて成立する。

 

 

2010年7月13日

 

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