存在論的に多、契約的に一


<O様>
富井先生、ありがとうございました。「三位一体の神様は契約的に一体であるがゆえに、聖霊が我々のうちに内住されているならば、父も子も内住したことになる」ですね。よくわかりました。
しかし、かなり多くの信仰書・説教が、「(文字通り)イエス・キリストの内住」を説いていますので、よくよく吟味してかからないと、気がつかないうちに大きな過ちを「信じる」ことになってしまいそうです。
お忙しい中、早速のメッセージ、誠にありがとうございました。

<tomi>

多くの信仰書・説教が、「存在論的一致」と「契約的一致」の違いについて明瞭に理解していません。

三位一体の神の3つの位格が、存在論的に一体であると考える人々がいますが、もしそうなら、三位に多様性はなくなります。

つまり、どうしても「父は子に変化し、子は聖霊に変化し・・・」的な様態論、サベリウス主義に陥ります。

これは、「一」の宗教であり、キリスト教は「一位一神教」(ユニテリアン)になってしまいます。

正統的なキリスト教は、「三位一神教」であり、「一であると同時に多でもある」宗教です。

「一であると同時に多でもある」神は、存在論的に「多」であり、契約的に「一」である必要がある。

これは、夫婦が存在論的には多であるのに、契約的には一であるのと同じです。

被造物である人間は、神の似姿として、「個」であると同時に「社会」でもなければなりません。

キリスト教が、アナバプテストのように、「個」だけを強調するならば、神の一面しか象徴できなくなります。

あまりにも「個」を尊重しすぎ、集団としての人間を軽視すると、「幼児における洗礼は無効であるから、もう一度受けなおすべきだ」というような主張になります。

聖書において、個人に対する祝福は、それに連なる集団「家族」にまで及ぶとはっきりと述べられています。自分の家族のメンバーが救いを意図的に拒否しない限り、家族は自分の信仰のゆえに格別な祝福にあずかり、家族契約を通じて救いにいたるということを我々は認めなければなりません。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16・31)

また、あまりにも「集団」を尊重しすぎ、個人としての人間を軽視すると、「全体主義」になります。家族や民族が個人の信仰を圧殺し、自由を剥奪することがあります。

聖書は、「生まれながらの人間はみな契約的にアダムと一体である」と教えています。

個々人は存在論的には多ですが、契約的に一です。

我々が救われるのは、契約的にキリストと一体になることによってです。

我々クリスチャンはそれぞれ違う存在であり、存在論的には多ですが、キリスト契約を通じて一であり、これを象徴するのが、聖餐のパンとぶどう酒です。

聖餐式において、我々クリスチャンは、キリストと同じパンを食べ、同じぶどう酒を飲むことによって、クリスチャン同士、そして、キリストとの間に契約的一致があることを証言します。

このような、存在論的な多と契約的一の根源は、存在論的に多である三位の間に契約的一の関係があるというところにあります。

 

 

2006年4月11日

 

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