絶対に振り向いてはならない


人生を振り返ると、一度神の前に約束したことは、こちらが忘れていても、神は覚えておられ、それを適用しておられると思う。

献身の決意をした人は、完全にえり分けられる。

神殿で使用するようにえり分けられ聖別された器を他の用途に用いると、恐ろしい罰が下ったように、献身しながら別のことを考えるとさばかれる。

イスラエルは神と契約を結んだときに、神殿で使用される器になった。

だから、聖くなることが徹底して求められた。

他の民族だったら大目に見られるようなことで厳しく裁かれた。

神のために専門で働くと決意した人は、自分は聖別された器であることを自覚し、それ以外のことにうつつを抜かしてはならない。

もう神の所有になり、捕らわれているのだ。

神は執拗にその人がおるべき場所に戻そうとされる。

ヨナを見なさい。使わされた場所と反対方向に向かったら嵐にあって瀕死の目にあった。

無理やりと言ってよい方法で使命の場所ニネベに連れ戻された。

献身者の周りにいる人々は、注意してほしい。

献身を翻させるような言葉、行動をすれば、自分がその災難に巻き込まれる。

ヨナと一緒に舟に乗った人々も、嵐に巻き込まれた。

彼らはくじを引いて誰が問題か調べた。すると、ヨナに当たった。

ヨナは説明した。「実は私にはこれこれの使命があったのですが・・・」

献身した人間が別の方向に行っているならば、それに組したり、それに同調したりすれば、自分も煮え切らない献身者に下る災難に巻き込まれる。

まして、献身者に「やっても無駄だ。」などというような言葉、意思をくじくような言動は最悪の結果を生む。

私は、大学時代、伝道集会で一度、献身の決意の際に手を挙げた。

それをずっと神は覚えておられたと思う。

他の仕事をすると、献身者にしか分からないような「強烈な違和感」に支配される。

アルバイト以外、どの仕事をしても、コールタールの海を泳いでいるような抵抗に会う。

神の道は、平安でなだらかだ。何か空中を移動する車に乗っているように物事がすーっと進む。

しかし、御心に反した道を行くならば、嵐の連続になる。

イエスは「手を鍬にかけて後ろを振り向く者は私にふさわしくない」と言われた。

一度、あることを決断したら、それはよほどのことでない限り、神は最後までその決断の遂行を執拗に求められる。

このことは教理に関しても言える。

新しい光が見えたならば、よほどのことがない限り、つまり、聖書からそれが誤謬であるとはっきりと確認されない限り、その光のほうに進まねばならない。

神は我々に光を無駄には見せ給わない。


一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。(ヘブル6・4-6)

これは、ユダヤ教に逆戻りしたクリスチャンについて言われた言葉であるから状況は異なるが、「一度光を受けて」という部分は、共通している。

御国は教えを中心に発展する。聖書の中に隠れていた部分に神は光を当てられる。

その光を見た人間は、その光を前提としてさらに上に進まなければならない。

そのよい例がヴァン・ティルである。我々は、ヴァン・ティルによって、認識論の分野において驚異的な光を神に示された。

それまであいまいだった部分に光が当たった。

そして、ラッシュドゥーニーがその光を前提に神の法を回復した。

この光を見た人々には大きな責任がある。

それを見なかったかのように、暗いほうに帰るならば、それ相当の理由がなければならない。

つまり、聖書からはっきりと誤謬と証明しなければならない。

我々は絶対に振り向いてはならない。

 

 

2008年10月30日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp