正し過ぎてはならない


神の国の再建とは、革命ではない。

革命とは、あるシステムの中において、秩序を破壊するような行為である。

そのシステムの中において、給料をもらっているならば、クリスチャンがなすべきことは、そのシステムのために働くことである。

そのシステムが悪を行っているならば、改善のために働くべきであるが、どうしても直そうとしないならば、そこから離れることである。

この場合、注意しなければならないのは、マイナーな悪ではない。メジャーな悪である。

マイナーな悪についていちいち文句をつけていたら、自分がそうされるとつぶれてしまうように、組織はつぶれる。

そして、自分も際限なく組織を渡り歩くということになり、自滅してしまう。

われわれは、世の中を改善する任務を帯びているが、それは、必ずしも自分が存在する組織を徹底して正すことを意味しない。

ある程度やったらやめるのである。


あなたは正しすぎてはならない。・・・なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。(伝道者7・16)

この世界は、天国ではない。

お弁当を食べるときに、すべてのお米を食べるだろうか?

すべての食べ物を残さずに食べることができる人がいるだろうか。

そのお米や食べ物はものすごい労力をかけて準備されたものだ。農家が1年掛けて育てたお米だ。

しかし、人間が食事をする場合に、どうしても残る部分がある。

これはどうしようもないのだ。

自分に対してそういったものまで許容しなければ、それは、神の領域を侵しているのだ。

「ある程度やったら放置する」というのが聖書的な方法である。

後は神に委ねる。

最後まで徹底して自分でやろうとすることは傲慢以外の何ものでもない。

自分は立派でも何でもない。

自分でもできないことをなぜ他者に要求するのか。

徹底して悔い改めさせるとかできるわけない。

僕は人間は変わらないと思う。

自分から影響を受ける人がいるならば、それは、神がそういう人を用意してくださったからであって、自分が変えたのではない。

人間には与えられた器量というものがある。

クリスチャンでも、悟りのレベルに差がある。

それは、神が設定されたのである。

神が「この人にはここまで教えよう」と決定されたから、われわれは悟りが与えられる。

すべて選びである。

神が悟りを与えることを決定されていない人にどうやって説得できるのだろうか。

ムリだ。

だから、そういう人に出会ったら、早めに見切りをつけて別の人を探すべきだ。

それが聖書的な伝道である。

もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(マタイ10・14)

 

 

2011年1月17日

 

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