自分の心を健全にしたいなら自分を特別だと思わないことである


最近読んだクリスチャンの本の中に次のような文章があった。

「私は特別である!世界に私のような人間はいない。時間が始まったときから、私のような人間はふたりといなかった。誰も私のように微笑まなかった。誰も私の目・鼻・髪・手・声を持った人間はいなかった。・・・」

この本は心の傷を負って苦しんでいる人々のためのカウンセリングの本である。

心の傷を癒すためには、上記の文章をクライエントに読ませるべきだという。

たしかに私たちは特別な存在である。ひとりひとり神から特別に認められている。自分を価値ある者として認識することそのものに問題はない。

しかし、どうもおかしいと感じるのである。

私は、現代の教会が人間中心的心理学に冒されており、神と人間の立場が逆転していると考えている。

ヒューマニズムは、人間から始まり、人間に終わる思想である。

これは聖書的キリスト教と対極に位置する。聖書的キリスト教は、神に始まり神に終わる思想である。

最近のキリスト教、とくに福音派のキリスト教の本質は、ヒューマニズムである。ヒューマニズム思想をキリスト教用語を使って表現したものに過ぎない。

その究極的目的は、人間の幸せであり、そのためにキリストは十字架につかれた、という構造である。

この構造の中において問題とされている「心の傷」「人間関係の回復」などは、けっして聖書が教えるものではなく、ヒューマニズムのそれである。つまり、その問題の解決の究極的目的は、神ではなく、自分の幸せである。

このようなカウンセリングにおいて、どこにも「さあ、健康を取り戻したのだから、神の国を建設しよう。この世界を変えよう。」という奨励はない。

「回復したあなたは、他の人々を誘って、このカウンセリング教室に来てください。」というに留まる。

何のための健康か?何のために回復したのか?

一番重要なポイントがバッサリ落ちている。

人間のいかなる活動も、それが神中心に行われず、その究極的な目的が神の栄光を表すことに置かれていなければ、意味はまったくない。それゆえ、その「癒し」の業は、人を癒さない。

人間は、「自分を捨て、自分の十字架を負って、キリストに従う」以外に健全な心になる道は存在しない。

人間は、「あなたは特別な存在です。」と言ってもらうことによるのではなく、逆に、「自分を無と考えなさい。この地上において自分の命を憎みなさい」と言ってもらうことによって真に回復する。

自分の心を健全にしたいなら、自分を忘れ、自分を特別だと思わず、自分を主の奴隷、いけにえとみなすことである。

本当の解決は、今のキリスト教のカウンセリングの逆をやればよいのである。

 

 

2006年11月28日

 

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