日猶同祖論否定論は非聖書的である


日猶同祖論というと、従来トンデモ扱いをされてきた。

なぜならば、歴史教育の常識として、ユダヤ人が紀元前に日本に来ることなどありえないと思われていたからである。

しかし、この常識はまったく根拠がない。

なぜならば、ユダヤ人は、ソロモンの時代から大航海をしていたという記述が聖書にあるからである。

聖書は、ソロモンの船団が孔雀を運んできたという。孔雀は、ミャンマーが原産である。

フェニキア人はユダヤ人とともに世界中を大航海しており、古代において大西洋を横断することが技術的に可能なことは実証試験が行われている。

南米においてユダヤ人のメノラーが発見されたり、与那国島にフェニキア文字が発見されたり、いろいろな証拠が見つかっている。

紀元前2世紀にユダヤ人の集落が世界中いたるところにあったという記録もある。

シルクロードは東西交易の中心的な役割を古代から果たしていた。

インドのクリスチャンの口伝によるラッバン・ソングでは、使徒トマスがインド伝道の後に中国に向かったという。
http://www.12-apostles.com/resources/thomas.htm

ユダヤ人は商人として世界中に駐在していたであろう。その世界中に散ったユダヤ人が日本に来ていなかったとどうして言えるだろうか。

実証的に見てもユダヤ人が日本に来ていたことはあり得ることであるばかりではなく、クリスチャンは信仰の面からユダヤ人の日本到来を信じなければならない。

なぜならば、福音は世界中に散ったユダヤ人に伝えられなければならなかったからだ。

この点は非常に重要だから確認してもらいたい。

いいですか。

ユダヤ人は契約の民である。モーセにおいてすべてのユダヤ人及びその子孫はアブラハム契約及びモーセ契約の中におり、それゆえ、メシアによる贖いを受ける資格がある。

なぜならば、アブラハム契約及びモーセ契約は、「メシアによる救いの契約」だから。

それゆえ、アブラハム契約及びモーセ契約の中にいたユダヤ人はことごとく、メシアが到来し、十字架について贖いを成し遂げられたという福音を聞いて救われる権利がある。

だから、使徒たちは、世界中に散ったユダヤ人への伝道の使命を帯びていたのである。

紀元70年にいたる「イスラエルの終末」の時代(聖書の終末とはこのことを言う)に、救いを契約の民に伝え、その対応如何で救いか滅びを選択させることが、使徒たちの使命であった。

そのために、彼らは文字通り世界中に散った。

マタイ24章にはそのことがかかれている。


「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(マタイ24・31)

ここで「御使い」を表す言葉は「伝令」「使い」を表すアンゲロスである。

だから、紀元1世紀においてすでに日本に福音が伝えられていたと考えることに無理はまったくないどころか、聖書によれば、我々はそのことを信じなければならないのである。

日猶同祖論(この場合日本にユダヤ人が古来来ており、その文化的宗教的影響を受けたという意味)を非科学的とか、非信仰的と考えることはまったく間違っているだけではなく、それは不信仰ですらある。

 

 

2008年4月11日

 

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