キリストを信じたら勝ち組だ


勝ち組と負け組という言葉があるが、人生の負け組とは、聖書に反する生き方をした人であり、勝ち組とは、聖書に従った生き方をした人である。

これ以外の定義はない。

我々がクリスチャンになったらその瞬間に勝ち組が決定した。

我々は、勝った。

我々の人生は成功した。成功する予定だ、というのではなく、「すでに」成功した。

「いやぁ、誰がそんなこと信じますか。あなたはそんなに貧乏で、無能なのに。社会で誰があなたのことを評価するでしょうか。」という人がいるかもしれない。

人間がどう見ようが関係ないのだ。

成功か不成功かは、神が決定される。

聖書において、神が、我々のことを勝利者だと言っておられるのだから、それでいいのだ。誰が神の意見に逆らえるのか。

世は、こういう意見を妄想と見る。

なぜならば、世の基準は、「世間の評価」にあるからだ。

世は、「あなたそんなこと証明できますか?自分で勝手に妄想しているだけでしょう。世間がそう認めなかったら意味がないじゃないですか」という。

「オリンピックで優勝しましたか?ノーベル賞を取りましたか?総理大臣になりましたか?年商○億稼ぐ会社の社長ですか?年収は1000万になりましたか。・・・」と。

関係ない。

オリンピックで金メダルを取ったら成功で、予選敗退なら不成功なのか。

誰が決めた?

世間だろう。

あなたにとって、世間の教えが絶対なのか。

それなら、偶像礼拝だ。

自分が偶像礼拝者であるか、チェックしよう。

あなたは、誰の目が気になりますか。

誰に依存していますか。

誰にすがっていますか。

誰に拒否されのが怖いですか。

「神だけです」と答えられないなら、偶像礼拝者だ。

あなたが依存してる対象、それがあなたの神だ。

あなたが評価する場合、その評価の基準はどこにあるか。

「聖書だけです」と答えられないなら、偶像礼拝だ。

本当の自信、本当の自立とは、聖書の教えだけにどれだけ立てるかによって決まる。

我々は、誰がなんと言おうと、勝ち組だ。

我々は、キリストを信じたときに、全世界を手に入れた。

全世界の王になった。

狂っている?

そう思いたいならそう思え。

聖書がそう述べているのだ。


すべては、あなたがたのものです。
パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。
そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。(1コリント3・18-23)

「世間が認めなきゃだめだ」って?

あなたは、世間教という宗教の信者だ。クリスチャンではない。

教会成長学によって、教会に世間教が入った。

牧師が礼拝出席者で互いを評価するようになった。

どれだけ大きな会堂を建てるかを競争しはじめた。

「この先生は、○○市で100人教会を牧会する成功した牧師です」という紹介のされかたが始まった。

くだらない。

世の中から救われて、また世の中に戻った。

偶像礼拝から救われて、また偶像礼拝の中に帰った。

基準が聖書からずれたので、優越感と劣等感の間を木の葉のように揺れ動くようになった。

まったくくだらない。

我々は悔い改めて、聖書に帰り、聖書だけを基準にして生きるべきだ。

 

 

2009年11月6日

 

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