再建主義を拒否する本当の理由


翻訳の仕事をしていて思うのだが、各分野におけるプロの知識は、シロウトがどうやたって及ばない領域にある。

だから、一見してわけがわからないものを訳さなければならない場合が多い。

家電製品、たとえば、テレビやコンピュータの内側だけ見たって、人間が開発したもののすごさは一目瞭然である。シロウト目には何がなんだかわからない。

人間は非常に「カシコイ」のである。翻訳をやっていていつも、プロの世界はすごいなあと思う。

しかし、いったん、聖書の教理の話になると、私はとたんに「人間って馬鹿なんじゃないか?」と思う。

なぜならば、道理が通じないからだ。

今回もfms氏が、私が言っていることは極端で、「キリスト教のアルカイダ」だと言われたが、どこが極端なのかは何も言っていない。

私の言っていることのどこが極端なのか、自分でもさっぱり分からない。

私は神学校で教わり、伝統的な教理本と、聖書を超えたことなど言ったことはないし、また言うつもりもない。

「再建主義」という新しい立場のように見えるブランドをかざしているのが悪いのだろうか。

「再建主義」で新しいことは何も言っていない。全部歴史的キリスト教の範囲の中にあることだ。

セオノミーだって、ポスト・ミレだって、前提主義だって、統治主義だって、契約主義だって、既存のカルヴァン派が主張してきたことだ。

いたってノーマルだ。

再建主義が独自なのは、それらをまとめて一本化したことだけだ。

こんな理屈、プロとしてあの難しい機械を作ったり、ビルを建てたり、橋をかけたりできる人間の知性であれば、一回聞いたら納得するはずだ。

しかし、私がここで何度言っても、「極端だ」の声が鳴り止まない。

こういう無理解を見るにつけ、「人間って馬鹿なのだろうか?」と思うのである。

たしかに、人間は「宗教に関して」馬鹿なのだ。

「キリストが十字架にかかって私の罪を身代わりに背負って死なれ、復活し、永遠のいのちを与えてくださった」

この基本教理すら分からないのだから。

こんなのは一回聞いたら子供だって受け入れられる。

もう少し高度な予定論などは中学生でも受け入れられる。

「神は絶対者なので、すべてのものについて絶対的に能動的であり、すべてのことを予定された」

もう少し高度なセオノミーなら高校生でも受け入れられる。

「新約時代において、律法は廃棄されたのではなく、確立された。クリスチャンは裁判官としての律法から解放されたが、教師としての律法からは解放されていない」

人々が一番ひっかかっているポスト・ミレは、小学生レベルの教えだ。

「神は全能で、サタンよりも強い。だから、歴史内において神は最終的に勝利される。歴史は神の国の発展の過程である。」

神は「全能」だという前提をまず教えて、その上で神の軍隊とサタンの軍隊を並べて、戦争させてどちらが勝つか予想させたとしよう。

全能というのが抽象的なら、神の側に無数の兵士がいる絵と、サタンの側には100人しかいない絵を見せて、「どちらが強い?」と聞けば答えは幼稚園児でも出せる。

前提主義はどうだろう。

「聖書は神の言葉であり、絶対の権威がある。神の言葉から出発して、その他のすべてのものを解釈しなければならない。だから聖書は聖書によって解釈しなければならない。」

これは、私は、中学生レベルだと思う。

私がこのHPで主張していることは、大学に行くまでもないことなのだ。

高校の教育受ける力のある人なら誰でも理解できることだ。

しかし、いい大人、しかも、牧師までもが、理解できないという。

この盲目の原因は、知性にはない。それは、道徳的な問題なのだ。

「神を王として認めたくない」という問題なのだ。

再建主義を拒否する人間の心の奥底にあるのは、「反キリスト」の霊である。

彼は実質的にノンクリスチャンであり、神の国の住民ではない。

だから、神の主権を嫌うのだ。

これが、無理解の究極の原因である。

 

 

2004年7月2日

 

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