字義的解釈と象徴的解釈の区別45


<Q>
旧約全体が影ならば暦、祭、動物犠牲に限定されるのはなぜでしょうか。パウロが言っているのは影を代表して三つあげたのではないでしょうか。私の使っている口語訳には祭、新月、安息日など、となどや、その前の、あるいわ、とゆう言葉使いはおおまかに代表して言ってるように聞えますが。別に暦、祭、動物犠牲に固定してはいないと思うのですが。旧約全体が影ならば。全部本体にした方がすっきりするのですが。御意見をお願いします。

<A>
旧約聖書はすべて影であり、新約時代になってキリストにおいて確立しました。
ですから、このパウロの個所は一部を挙げただけです。
廃棄されたものは一つもなく、すべてが成就され、また、確立されました。
今や、全部が本体なのです。
安息日は、新約時代にキリストにおいて確立され、すべてが安息日になりました。
聖地は、新約時代にキリストにおいて確立され、すべてが聖地になり、地球上のすべてが(ほんとうは宇宙全体も)人間にとって聖地なのです。汚れた土地など一つもありません。全部がキリストの十字架によって洗い清められました。

「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ1・20)

我々は、今、時間的にも空間的にも新天新地の安息のエデンの園の中にいます。

「じゃあ、何をしても人間は聖いことをしたことになるのか、時間も物質も何でも聖いのか?」という問いがあるかもしれません。

人間にとって、「信仰に基づかないものはすべて汚れている」のです。

神の主権のもとにおかずに行うことは、すべて汚れています。

「・・・すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。」(ローマ14・20)

「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。」(テトス1・15)

それゆえ、新約時代において、旧約時代の「聖いものと聖くないものの区別」は、「信仰によるものと信仰によらないものの区別」に変わったということになります。

物質や場所や時間そのものの区別というのは、旧約時代に、人々に真理を教えるための「教育用教材」でしかなかったのです。

今や「うろこのある魚はよいが、ない魚は食べられない」などと考える必要はありません。

信仰によって食べるならばすべては食べてよいのです。しかし、「神など関係ない。神に感謝などする必要はない。」と考える人が食べるならば、何を食べても汚れているのです。

新約時代において、万物「自体」はすべて聖くなり、ことごとくキリストの王国の中にあるものに変身しました。

旧約時代の区別は「影=教育用教材」であり、その本体的区別に変化しました。

旧約時代においてユダヤ人が「これは聖い、これは聖くない」と区別していたのは、キリストにある区別の方法を示すためでした。

我々は、今のキリスト王国の中において、あらゆるものがキリストのために存在しています。

キリストを中心として行うものは聖く、そうではないものは聖くない。

神に感謝して行うものはすべて聖く、そうではないものは聖くない。

どの日が安息日で聖い日で、どの日が非安息日で汚れた日、というような区別はありません。

すべてが聖い安息日であり、すべての時間が御国の時間です。

「神中心に使用する時間」は聖く、「神と無関係に使用する時間」は汚れています。

では、神中心とか、神に感謝して行うなら、姦淫や殺人でも聖くなるのか、と問う人がいるかもしれません。

神中心とは「神を愛している」ということと同義であり、イエスが述べたように、「神を愛すること」は「律法にしたがって歩むこと」と同義です。

だから、律法に反する行為をすることは神を愛さない行為であり、それゆえ汚れた行為ということになります。

    影(教育的教材)           本体(確立され実質化)
==========      ===============
聖不聖を区別する律法       もの自体はすべてが聖、ただし動機によって聖不聖の別が生じる
儀式律法               まことの神殿であるキリストへの礼拝により場所と時間関係ない。
道徳律法               確立され、超民族的な戒めに。

 

 

2007年2月15日

 

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