ディベート音痴を生んだ日本の教育の貧困


最近、私のページを引用しているページが増えた。様々な批判があるようだが、きちんとセオノミーとポスト・ミレの主張を理解すれば、反論は無駄だと悟るだろう。セオノミーとポスト・ミレの主張を聖書から否定できる力のあるのは、フルプレテリズム以外にはない。それ以外の立場が聖書に基づいてセオノミーとポスト・ミレを反論することなどできるわけがない。

山谷氏のように、聖書を権威と考えていなければどんな批判でもできるが、それは、正当な批判と言えない。聖書以上に自分の主観、人間の考えを最高基準とおけばなんだって批判できる。しかし、聖書以上の基準を設定した時点で、その人はクリスチャンではないことは明らかだから、彼との議論は無駄なのである。

「再建主義は間違いだらけだ」と山谷氏は言う。しかし、「では、何を基準に間違いだというのか?あなたは聖書を基準としているのか?」というと、「いや、救い以外について聖書は基準ではない」という。

聖書を基準としていない人間がどうして再建主義を間違いだと言えるのだろう。彼は、結局、聖書を権威とするのではなく、「人間の考え」を基準としてもよいと考えているのである。「人間の考え」を絶対基準にするのは違法だと我々は考えるから、彼の批判は批判ではなくなるのである。

批判にしろ、議論にしろ、判断基準がまったく異なる者どうしで議論しても始まらない。

もし、判断基準が違う者どうしが議論したいならば、その人は、相手の基準に一回立って、内部矛盾をつく以外にはない。しかし、山谷氏の議論は、そのようなものではなく、あくまでも「私の考えでは…」と自分の考えが基準となっているのだから、「ただの遠吠え」にすぎない。

いわゆる科学を持ち出してキリスト教を批判する人々も同じ間違いをしている。自分が立っている前提を持ち出して、前提が異なる体系を批判することはできないのである。

このような、まったく議論の基礎の基礎すら分かっていない人ばかりだというのはどういうことだろう。いかに日本の教育がディベートを軽視してきたか、ということだ。

単に知識が多いだけでは本当に教育を受けたことにならない。
重要なのは、その知識を正しく用いることができる、ということである。

 

 

2004年3月23日

 

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