死刑制度は正しいか?


<AK様>

しかし、一方で納得いかないエッセイもありました。特に日本の死刑制度への批判が書かれているエッセイに非常に心が痛んだのを覚えております。私も日本の刑罰が犯罪者に非常に甘く、犯罪を助長しているのではと思っておりますが、死刑制度の積極的な肯定は今の私には受け入れられそうにありません。

聖書の何処の箇所に書いてあるなどと勉強不足の私には指摘することができませんが、イエス様は人間全てをクリスチャン、ノンクリスチャン、犯罪者、一般の方々を問わず非常に愛しておられます。ですから、その人が人の目から見て本当に邪悪で、目の覆いたくなるような事をしていても、死刑で悔い改める機会が失われてしまうのを悲しまれると思います。そういう人こそ是非クリスチャンが粘り強く伝道していか
なければいけないのではないでしょうか。

自分でも、何故死刑にしてはいけないのか。などと思う事件は昨今増えてきております。本当に被害者や遺族の方々のことがニュースなどで報じられるたび憤りと裁きの心が浮かんできてしまいます。

しかし、それを見たイエス様がどういう行動をされるかと想像すると、死刑にしろなどと仰っている所が想像できないのです。
むしろ、哀れんで罪を犯した人に対して祈り、悔い改めをするように行動するのではと思えてきてならないのです。

<tomi>

さて、ご質問の点につきまして、まず、次の点について確認させてください。

(1)聖書はあらゆる問題についての最高権威であるということ。
(2)それゆえ、自分の考えが聖書と違う場合にそれを捨てて、聖書に啓示された教えを選択すること。
(3)この点について一致できなければ、同じ信仰に立っているとはいえず、それゆえ、対話できないこと。


(1)聖書において死刑は選択の問題ではなく、命令されています。

とくに、故意の殺人については、死刑以外の選択は許されていません。

モーセの律法では次のように言われています。

「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。 ・・・人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」(出エジプト記21・12,14)

この律法は廃棄されていません。

「わたしが来たのは律法や預言者(=旧約聖書)を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5・17-19)

律法は新約時代になって廃棄されたのではなく、確立されています。

「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)

新約聖書においても、パウロは死刑を認めています。

「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。<彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定め>を知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」(ローマ1・29-32)

パウロは、ここにおいて「あらゆる不義と悪とむさぼりと悪・・・慈愛のない」罪を、死罪(=死ぬべき罪)であると述べています。

また、使徒の働きにおいては、次のように述べてローマの死刑制度に服従の意思を示しています。

「もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。・・・」(使徒25・11)

イエスご自身も、死刑制度を非難されませんでした。そのような個所は一つもありません。

さらに、イエスご自身がこう述べておられます。

「わたしは、この女(イゼベルという名の偽預言者)を病の床に投げ込もう。・・・また、わたしは、この女の子供たちをも死病によって殺す。」(黙示録2・23)

イエスは、罪人を殺されるお方です。

そのほか、無数の個所において、聖書は旧約聖書も新約聖書も、死刑を明らかに教えています。

聖書以上の権威は存在しないのですから、私たちはクリスチャンとして死刑制度を主張しなければなりません。


(2)私たちは、聖書を神の言葉として認めています。もし認めておらず、それに従う意志がなければ、その人は、イエスを主としていません。

なぜならば、イエスご自身が、聖書を無誤無謬としておられるからです。

イエスを主と告白しない霊は、「悪霊」です。

「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(1ヨハネ4・3)

(3)聖書を神の言葉(=絶対権威)として受け入れず、人間の頭の創作を優先することは、聖書において厳禁されており、そのようなことをする人をクリスチャンと呼ぶことはできません。

問題は、「私たちがどう感じるか」ではなく、「聖書は何を教えているか?」にあります。

「聖書はそう教えているかもしれないが、私は・・・」という主張になれば、水掛け論になり、結論がでません。

「私はこう思う・・・」「いや、私はこう思う・・・」・・・

際限のないやりとりが続いて無意味です。

以上の3点を対話の可能性を判断する基準としたいと思います。

 

 

2006年4月27日

 

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