霊魂の死後彷徨について


>ところで、11/16(火)14:58の記事について、教えていただきたいのですが、「日本兵の霊」と
>は、仏教的な意味での成仏しないでさまよっている霊ということでしょうか。

>聖書では、人の霊は死後、さまようことなく直ちに、主のみもとにゆき、祝福、もしくは裁きを受け
>ると、書かれていますが。

>よろしくお願いいたします。

私は、日本の国防のために亡くなった軍人の霊を英霊と呼ぶことに躊躇しません。
ただし、その霊がイエスを受け入れなかった場合には、裁きに合うことは確実です。
残念なことですが、イエス以外に救いはありません。生前どんなに善行を積んでもイエスを信じない人は裁かれます。

死んだ霊魂については、改革派の榊原康夫先生の注解書においてかつて読んだのですが、イエスの当時、ユダヤ人は、霊魂が3日の間さまようと考えており、それなるがゆえに、イエスが3日後に復活したとされたとありました。

これは、本当にそうか不明ですが、ユダヤ人たちが霊魂の地上における彷徨を一概に否定していなかったことがわかります。

ガリラヤの湖上でイエスが歩いてくるのを見た弟子たちが「幽霊だ」と叫んだとあります。

聖書において死後の霊魂の彷徨についてはっきりと否定されていないと思います。

もう一つ、私たちは、プレ・ミレでは、死後霊魂になると教えられてきました。

しかし、イエスは、「私を信じる人は死ぬことがない。」と言われました。

イエスもパウロも、「キリストを信じた人はよみがえった。」と言いました。

私たちクリスチャンは、すでによみがえっており、死ぬことがありません。

だから、今この肉体が滅んでも、すぐに新しい体が与えられると考えます。

プレ・ミレによれば、体が与えられるのは、キリストの再臨の際にです。

携挙があって、その際に復活すると。

しかし、テサロニケのあの携挙の箇所は、「生き残っている私たちが」とあり、読者をパウロの同時代人に限定しています。

「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」(1テサロニケ4・15)

「聖書は聖書に語らせる」という原則によれば、復活というのはすでに紀元1世紀にあったということになる。

つまり、紀元1世紀において、「よみ」にいた契約の民には、体が与えられたのだということになります。

そして、今われわれは、これらのパラダイスにいる契約の民と、「一つの体」である。

だから、体がまだ与えられていないというようなプレ・ミレの解釈は間違いであり、私たちはそれを捨てなければならない。

聖餐の意味がなくなってしまいます。葡萄酒とパンを食するという行為がどうして重大なのか。なぜ御言葉の説教だけではだめなのか。それは、「体においてわれわれは主と兄弟と一体である」から。

契約に属する人々は、みな一つの体である。その一体性は絶対に失われない。

もし体を持たないのであれば、この復活後の時代に、それは契約の中に入っていることにならない。

ということで、今すべてのクリスチャンには体があり、それゆえ「霊魂だけの状態にいるクリスチャン」などというものは存在しない。

そして、イエスが十字架にかかられたのちに、昔の聖徒たちが復活して町に現れたとあります。

贖いが成し遂げられたので、すでに復活した人々もいた。紀元70年にキリストの来臨がある前にすでに一部の人々に体が与えられていた。

ですから、イエスの十字架から紀元70年までは過渡期であり、紀元70年の完全復活、キリストの王国の完全樹立までは、部分的であったということなのでしょう。

この過程についてヨハネは黙示録において予言した。

旧約の時代に対する裁きと、新しい時代の到来の準備の期間。

さて、こう見てくると、クリスチャンで体が与えられた人々が、地上の人々の前に現れることは別におかしいことでも非聖書的なことでもない。

聖書のいかなる箇所においても、不滅の体を与えられたクリスチャンがわれわれの周りに登場しないということを証明できない。

私は、御国という概念をはるかかなたの場所に置くということは誤解を生むように思います。

むしろ、この地上世界と御国とは一体なのです。

「御国はあなたがたのただなかにある。」とあります。

となれば、この地上においてキリストの主権が及ぶ場所が拡大されればされるほど、地上に天が現れる。

地上天国が到来する。

われわれが昇天したクリスチャンとか、亡くなったクリスチャンというような、どこか遠いところに行ってしまったかのように考える考え方というものは誤解であると思います。

この地上も天国であり、クリスチャンは肉体を離れてすぐに御霊の体を与えられたのであれば、昇天したクリスチャンが、この地上において何らかの関係を持っている可能性を否定できない。

それ以上は啓示されていないのでわかりません。

神がどの程度、昇天したクリスチャンが地上にきているのか、それとも、来ることを絶対的に禁止されているのか、不明です。

しかし、可能性は否定できない。

では、クリスチャンに対する裁きとは何か、という問題があります。

即座に体が与えられるのであれば、裁きはどうなるのか。

おそらくわれわれが肉体を離れる際に瞬時に神の評価が下り、それに応じて、永遠の体における地位や財産などが付与されるのでしょう。

その地位や財産というものがどこにあるかは不明です。

異次元にあるかもしれない。しかし、「霊的世界だけ」の話ではない。なぜならば、われわれの受け取るものは、「体」であり「物質と何らかのつながりがあるもの」だからです。(イエスは魚を食べられ、壁をすり抜けられた。エマオの人々の前に可視的に現れられた。傷に触れてみよ、と言われた。)

こういうふうに見てくると、いわゆる霊的現象と呼ばれる無数の証言についても別の見方が可能になります。

水木しげるは、戦争で南洋に行き、そこで戦友をたくさんなくしている。彼がそこを訪れると、たくさんの戦友の霊が現れた。

サイパンで、日本への幽霊を見た人から話を聞いたことがあります。

戦場で日本兵の霊が多くの生徒の前に現れて授業ができなくなった南方の学校のニュースがやっていました。

ある知り合いのクリスチャンは、昭和天皇と話したことがあるといいます。

こういった証言を全否定できるでしょうか?

私は聖書から可能性として次があると思います。

1.その霊は悪霊であり、われわれに間違った死後に関する知識を与えるために日本兵に偽装して現れている。
2.死後の世界に行く前の救われていない霊。
3.御霊の体が与えられているクリスチャン。

これらについて、聖書啓示は限界があり、それぞれについて「ありえる、ありえない」とはっきり言えないと思います。

 

 

2010年11月17日

 

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