フルプレテリズムは世界の「法的側面」と「実際的側面」を混同している


フルプレテリズムの問題は、聖書が教える2段階の清めを無視しているところにある。

聖書は、「法的」と「実際的」との2段階の回復を教えている。

世界は、まず法的に清められる必要がある。

そして、天地にあるもの一切がキリストの十字架の血によって清められたのである(コロサイ1・20)。

しかし、これは、「法的な」清めであって、「実際的な」清めではない。

世界は実際に清められる必要がある。

これは、クリスチャンの聖化に似ている。クリスチャンは、キリストを信じた時に完全に聖くなった。

だから、クリスチャンになった後にも「私は本当に救われるのだろうか。」と悩む必要はないのだ。クリスチャンは、「法的な救い」を手に入れた。もはや法的に裁かれることはない。

罪の赦しに悩み、「どうも救われている気がしない」と悩むクリスチャンは、裁判で無罪になったのに、「無罪になった気がしない」と言って、裁判所に通っている愚かな人に似ている。

法的に無実なのだから、無実なのだ。もはや警察官が彼を逮捕にくることはない。

それと同じように、クリスチャンはキリストを信じた後に完全に救われているのだから、自分の救いについて悩む必要はまったくない。

しかし、この救いは「実際の」救いではない。クリスチャンになった後でも、彼は、「クリスチャンとしてふさわしくない」罪を犯すかもしれない。

彼は依然として罪人である。クリスチャンとはある意味において名ばかりである。どのクリスチャンも、「名目的」クリスチャンである。名目的クリスチャン以外のクリスチャンはこの世界に存在しない。

彼は依然として偽善者であり、律法を破る者である。

しかし、彼は実際的には罪人だが、法的には聖人である。

日本に帰化した外国人を見れば分かる。まだ日本語にも日本の習慣にも慣れていない。しかし、彼は日本の国籍を取ったので、間違いなく日本人である。

日本の国籍を取って日本に住んでいる人がだんだんと日本人らしくなるように、クリスチャンがクリスチャンらしくなるのには時間がかかる。それと同じように、「法的」クリスチャンが「実際的」クリスチャンになるには時間がかかるのだ。

世界も同じである。

キリストが「天地にある一切のものを十字架によって神と和解させてくださった」(コロサイ1・20)以降、世界は「法的に」クリスチャンの世界である。世界の王は「法的に」キリストである。

しかし、世界は「実際的」にはクリスチャンではないし、世界の王は「実際的」にはキリストではない。世界が実際的にもクリスチャンになるためには時間がかかるのだ。

今の世界は、新天新地である。

しかし、それは法的な新天新地であり、実際的な新天新地ではない。

だから、この2つを区別する必要がある。

フルプレテリズムはこの2つを混同したところから発生した謬説である。

もし、今の世界を「実際的な」新天新地と考えるならば、「もはや悪霊は存在せず、誘惑も存在しない。涙も苦しみも死もない。新しいエルサレムに我々は住んでいる」ということになり、とてもではないが、受け入れられる説とはいえない。

むしろ、聖書は、我々の世界は、「戦いの世界」であると語っている。我々の敵である悪霊は、まだ世界において活動している(エペソ6章)。

世界の諸民族はまだクリスチャンになっておらず、マタイ28章の大宣教命令は成就していない。

我々は、世界の諸民族を弟子とするために働かねばならない。

つまり、聖書は、我々の住むこの世界の状態を2面的に描いているのだ。

(1)法的に完全に聖められた世界
(2)実際的に完全には聖められていない世界

フルプレテリズムは、法的と実際的の区別をしないために、(70年以降の)今の世界を悪霊も戦いもない理想郷として描くので、無理があるのだ。

これでは、「我々はキリストにあって実際にも完全に聖化された」と述べる罪だらけのクリスチャンと同じように、偽善者になってしまう。

聖書を虚心坦懐に読むクリスチャンは、「法的側面」と「実際的側面」を区別するパーシャルプレテリズムが最も聖書的な立場であると確信できるだろう。

 

 

2004年6月15日

 

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