字義的解釈と象徴的解釈の区別19


<Q>
予定説についてですが、人間の自由意思までコントロールされているのか、それとも自由意思は人間にまかせて、その結果を支配されているのか。又、この人はこうゆう性格だから、こっちに行くだろう、と決めているのか。御意見をお願いします。

<A>
人間の自由意志はコントロールされていません。神は世界に起こるすべてのことをあらかじめ定められました。
ある人がキリストを受け入れて救われ、ある人がキリストを拒否して滅びることも神の決定によります。神は、創造者なので、人間をどのような役割のために生み出すかについて全権を所有しておられます。

「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」(ローマ9・21)

クリスチャンとして選ばれた人は恵みを受ける器として、ノンクリスチャンとして選ばれた人は呪いを受ける器として創造されました。選ばれた人から見れば、「え〜!ひどい!」と思うかもしれませんが、しかし、それは被造物として言ってはならない言葉です。被造物は主権者の決定に従う以外にはありません。

「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。」(ローマ9・21)

神は、罪人が罪を犯すように誘導されることはありません。

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」(ヤコブ1・13)

しかし、神は、誘惑する者が働くことを阻止されないということをあらかじめ定められます。

神による誘惑の阻止があれば、人は罪に陥ることから守られるでしょう。しかし、神は、ご自分のご計画のために、あえて誘惑を阻止しないことによって、人が罪に陥るようにされます。

誘惑者が誘惑することは罪であり、また、その誘惑にのって罪を犯すことも罪です。

しかし、誘惑を阻止しないということは罪ではありません。

被造物は、誘惑を受けても拒絶する責任があります。誘惑にのって罪を犯したら、あくまでも責任は罪を犯した本人(及び誘惑した者)にあります。

神は、永遠の昔にアダムが堕落することを予定されました。

しかし、これは、アダムを誘惑するということではなく、誘惑する者の誘惑を阻止せず、アダムが堕落することを阻止しないという形で予定されました。

それゆえ、神には罪はまったくありません。神は「法を完全に守った」からです。

アダムの事件において神が「誘惑した」のであれば、神に罪が残ります。

または、「サタンに誘惑をけしかけた」なら神は罪を犯したということになります。

しかし、神は「サタンが誘惑することを放置された」のです。

そして、人間が自分の自由意志に従って罪を選択することを阻止されませんでした。

このようなすべてのことにおいて、神はいっさい罪を犯さず、しかも、世界に罪が入ることが実現しました。

アダム以降の人間の場合でも、神は同じように「放置によって」人間を罪人として選ばれます。

堕落した人間は神の抑制の恵みがなければ、自然に罪を犯します。

ダムの水は水門が閉じているときには流れ出ませんが、水門を開けるととたんに下に向かって流れます。

ヒトラーのような世紀の大犯罪を犯す人は、神が水門を閉じなかったために、下にどんどん流れたのです。

我々一般人は、神の恵みによって水門は閉じられています。しかし、神が恵みを与えず、水門を開いたままにされるならば、我々も同じように堕落し、どんどん下に流れ、ついにはヒトラーと同じことをするかもしれません。

罪を犯しても罰が下らず、成功が続けば、人間は「これをやってもいいんだ」と思うでしょう。

どんどん悪に手を染めて、堕落の限りを尽くすでしょう。

人間の自由意志が自由に働くということは恐ろしいことなのです。神は恵みとして我々に成功を与えず、むしろ不幸に思えることが起こります。それによって、私たちがいかに堕落せずにすんでいるか!

神は永遠の昔に、ヒトラーを選び、彼の自由意志にブレーキをかけないことに決定されました。それによって、彼は神のご計画のとおりに、その堕落した自由意志を存分に働かせ、悪事に悪事を重ねました。

 

 

2007年1月27日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp