民主的体制から聖書的体制への移行2


(1)
聖書は普通選挙制度を教えていない。

なぜならば、神はクリスチャンを王=統治者とされたからである。

堕落する前のアダムに神は「地を従えよ」と命令された。

もちろん、この統治は、「神の御心に沿った統治」であった。

ノアの洪水の前に、全地が暴虐に満ちた時に、神は御心に従わない統治者とその民を滅ぼし、御心に適ったノアにだけ統治権を与え、再び「地を従えよ」と命令された。

明かに、聖書は、この地球を支配する権利があるのは、神の御心に従う忠実な信仰者であるということを教えている。

聖書から考えるならば、普通選挙制度はありえない。

(2)
普通選挙制度は、ノンクリスチャンにも政権を与える制度である。

これは、近代において人間が神の代わりとなり、人間が世界を統治する権利があるとしたヒューマニズム哲学に基づく政治制度である。

この制度において、神の御心なんてどうでもよい。

ヒューマニズム哲学は、「この世界が誰によって創造されたかなんて関係ない。神がいたとしても、それがどこにいるかどんな方かなんて証明できないのだから。そんないるかいないか分からない存在は無視して、この世界は俺たちのものであると考え、俺たちの考えで治めよう。」と言った。

その結果どうなったか?

自分勝手に政治をやり、経済をやり、いろんなことをやって自滅した。

公然と神の統治に反旗を翻し、人間の人間による人間のための統治を主張した共産主義の実験は完全に失敗した。

何についても言えることだが、政治制度について考える際にもまず、この世界は誰のものか?という質問に答えることが重要である。

少なくともそれは人間のものではない。なぜならば、人間が作ったのではないから。

だから、創造があったにせよ、進化論のように世界が偶然に成立したと考えたにせよ、人間がこの世界を自分の思いのままに治める権利があるとする主張を証明することは絶対に不可能である。

つまり、ヒューマニズムは、人間を「統治権を証明できないままに統治するエイリアン」以上のものにできない思想なのである。

もう統治に関する根本的な根拠がこのようにあいまいだから、ヒューマニズム体制の国家は、その土台がつねにグラグラしている欠陥住宅のようなものである。

このひずみはいろんな所に現われている。

なぜ人を殺してはならないのか?という単純な疑問にも答えられないから、時代と国によって殺人罪への刑罰に揺れがある。揺れがあるものだから、司法も自信を持って刑を決定できない。

昨今では死刑廃止運動もあるものだから、一人の殺人に対して死刑を宣告することに躊躇する向きが強い。死刑になるのは、複数殺した場合に留まっているようだ。

人の命という社会の根源的な問題についてですらこのようにグラグラしているのだから、他の問題については言わずもがなである。

それに対して、神が世界を創造され、世界に存在する一切のものは神の所有物であるという聖書の主張を受け入れるならば、その統治の方法が記されている聖書の記述に従ってその刑罰も明確に決定できる。

ヒューマニズム哲学に基づく統治と聖書的統治とどちらが首尾一貫しているか?

(3)
よく誤解する人がいるが、聖書的政治体制は、「人智政治」でも「賢人政治」でもない。

民主主義を批判するあまり、独裁的寡頭政治を主張するクリスチャンがいるが、人間は罪人であるため、相互のチェック・アンド・バランスが欠かせない。

この体制は、あくまでも「立憲制」であり、政体内部では選挙を行わねばならない。

人間はどんなに賢人と言われる人でも容易に間違うものである。だから、少数のものの判断に依存する体制は危険が大きい。

我々は、法治主義を主張する。為政者は憲法に従い、法律に従うべきだ。法は王である。もし法に従わないのであれば、司法の裁きを受け、行政の出来不出来について選挙人の審判を受けるべきだ。

(4)
聖書的科学は「一と多」の原理に基づくべきであると以前論じた。つまり、聖書に啓示されている事柄については、そこに疑いをかけることはできない。

なぜならば、人間理性が神の啓示を評価できるはずがないからである。もし評価できるとするなら、「神が主である」という前提に大きく違反することになる。我々は創造者の語った言葉である聖書に逆らうことは原理的に不可能である。

これは、「一」の原理、つまり、変化しない部分。時代や場所などに左右されない部分である。聖書啓示の領域において、人間の認識は、「演繹的」である。聖書啓示を絶対不変の真理、前提として出発し、そこから演繹的に知識を得ていく方法を取る。この領域にも帰納法的認識論を適用した自然主義神学を我々は拒否する。

それに対して、自然啓示については、帰納法的認識が妥当である。自然(この場合、人間社会にあるものも含む)に関して、実験や観察をし、データを集めてそこから法則や事実を抽出するという方法を取るべきである。スコラ哲学は、この領域においても演繹法を採用し、アリストテレスのドグマから演繹的に知識を拡大するという方法を取ったが、間違いである。

これは、多様性を尊重する方法であり、「多」の原理である。

聖書的政治体制についても、これと同じことが言える。

聖書は政治についても不変の真理であり、「一」とすべきだ。聖書は政治について絶対的権威か?などと疑うべきではない。これを疑うと、またぞろ相対主義の泥沼に逆戻りだ。政治を行なう者、裁判を行う者は、聖書を最終権威として堅持しなければならない。

また、聖書が示す統治者である聖書的クリスチャンに参政権を限定するというのも「一」の原理である。これを崩すと、実質的に「聖書は最終的で不動の権威である」という原理も崩れる。

これに対して、行政者の選出は「多」の原理である。聖書的クリスチャンの中で、ある特定の人物や集団に特別な権限を持たせるのではなく、平等に扱い、彼らを法律と、選挙人の審判に常にさらさねばならない。

人間の堕落性は、行政権の世襲や派閥政治を極力排除することを求めている。

もうお分かりだろうが、科学においても、政治においても、聖書は「新制不可侵」の領域に属しており、人間によるテストは通じない。聖書までも人間のチェックにさらさねばならないとしたら、「聖書啓示よりも人間の認識能力のほうが上だ」と告白することになり、神の無謬の言葉としての聖書そのものの主張と矛盾する。

しかし、それ以外、時代と地域と個性において多種多様である人間の認識や行動は、絶対的な権威を与えられるほど信頼に値するものではないので、常にチェックを加え、疑い、試す必要がある。

これが我々が主張する原理である:

「聖書を疑うな。人間を疑え。」

 

 

2005年2月23日

 

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