失敗を悪と見てはならない


年金問題で国民に不満が残り、参議院選挙で惨敗したので、年金官僚を処罰し、「あれはミスだらけだった」ということで出直しを図ろうとしているのだろうか。どうも今回の社会保険庁に対する処分は、トカゲのしっぽ切りのような気がしてならない。

土台、年金制度など無理なのである。

20世紀のはじめから世界中で、国が人々の生活の心配もし始めてから、国の財政は借金地獄にはまっている。

出生率を考慮すれば、この制度が存続できる可能性はゼロだと思う。

もう早めにあきらめるのが得策だ。

国は個人の生活の面倒など見る必要はないのだ。

それに、個人が自分の生活を自分で責任を持たない限り、個人も社会も堕落する。依存癖がつくし、世界の仕組みそのものを誤解するからだ。

神が創造された世界は、「危険な世界」なのである。

体の構造を見ても明らかである。

傷ができたら、血が止まって出血が続かないように仕組みができている。骨が折れても、自動修復されるようにできている。ばい菌が体内に入ったら、それを追い出す免疫の仕組みができている。

つまり、神は最初から「おまえ達は傷ついたり、骨を折ったり、ばい菌にさらされる可能性がある」という前提で世界を創造されたのである。

この世界とは、「失敗を前提として造られた世界」なのである。

だから、失敗を悪と見ることはできない。失敗を排除しようとするのは、「創造の秩序を否定」することである。神に向かって「あなたが創造された世界は間違っている」ということである。

もちろん、人間には傷つかないように、体のバランスを維持したり、とっさに危険物を避けるための運動機能があり、悪い物を食べたら吐き出す消化器官や神経などの「危険回避」のための機能が備わっているわけだから、失敗を避けることそのものが悪いと言うつもりはない。

問題は、失敗という概念そのものを悪と見る考えである。マルクス主義が世界ではびこるようになってから、失敗そのものは悪と見ることが常識化し、競争そのものを排除する思想が社会に蔓延した。

受験競争を回避するために、高校に学区制をしいたり、運動会で徒競走の最後に競争者みんなに手をつながせて同時にゴールさせたり、所得格差を是正するために累進課税をしいたり、アメリカでは、黒人だけ大学入学の特別枠を設けて優先的に入学させるといった制度もある。

人間は失敗するものとして創造されたのだ。人間の間には所得や成功や栄誉に格差が生まれるのは当然のことなのだ。

しかし、現代社会は、すべての人の結果を平等化することを目指している。そして、誰かが飛びぬけて成功することを許さない風潮を作り上げている。

何ヶ月か前に、あるマンションの住宅に人が入らないので、価格を下げたら、バブル当時に高値で買った人々から文句が出たというニュースがあった。

高値で買った同じものが安く売られたならば、「買った時期が悪かった」と諦めるしかない。それを売主の責任にするというのは、現代人がいかに共産主義の「結果の平等」という神話に冒されているかということを示している。

結果の平等とは、不健全な思想である。それは、成功者への妬みに基づいている。社会には成功者もいれば、失敗者がいてもよいのだ。誰もがみな成功し、失敗者をゼロにするなど不可能であるだけではなく、そのようなものを望んではならないのだ。

この世界は、裁きの世界であり、人間は裁かれるべき存在として創造されたのである。だから、自分の取った行動や努力や才能などにもとづいて評価が下り、それによって成功したり、失敗するように、なっているのである。

現代のクリスチャンは、マルクス主義の影響を受けており、聖書の述べている平等の概念を、共産主義の平等概念と混同している。クリスチャンが持つべき平等の概念とは、「結果の平等」ではなく、万人に公平な機会を与え、ルールを公平に適用する「機会の平等」である。

国がやるべきことは、国民に平等に幸せを与えることではなく、「幸せにいたる機会を平等に与えること」である。

マラソン競技で例えるならば、競技者を同時にゴールさせることを目指すのではなく、同じ条件で同じルールで競技させることを目指すことである。

そして、結果については、個人に責任を取らせることである。

そうすれば、個人は他人に依存するという悪から解放される。成功と失敗が当然のこととみなされるようになれば、成功者に対する妬みは非合法化され、成功者は他人に気兼ねせずに新しいことに挑戦できるようになり、社会は未来志向になる。

ジャングルに住む未開人の社会の原因を現代人は「進化の途上」にある社会とみなす傾向があるが、私はそう思わない。未開社会が発展できない最大の原因は妬みである。他人の目を恐れて新規の発明や発見ができないのである。

木製のくわを使っていたのに、ある人が鉄製のくわを使うようになり、生産力が格段に進歩すると、このような社会は、鉄製のくわを使う人をいじめて追い出すのである。

サタン的な平等社会とは、高いレベルで平等になるのではなく、一番低いレベルで平等になろうとする。だから、いつまでたっても進歩しないのである。

聖書は妬みを非合法と見る。だから、聖書の教えが支配的な社会では、妬む人は肩身の狭い思いをする。これこそが、キリスト教文化圏「だけで」科学が長期的に発達した理由である。

日本がこれだけの科学の進歩、経済成長を遂げることができたのは、キリスト教文化を導入したからである。しかし、日本の社会にはまだ「出る釘を打つ」伝統が残っている。完全にキリスト教化されていないのだ。

聖書律法に基づく社会と聞くと、「がんじがらめに縛られて身動きがとれない社会になるのではないか」と心配する人々がいるが、逆である。

聖書律法は、妬みを禁止し、発展を奨励するので、文化は無用の束縛から解放されるのである。

その証拠は世界史を見ればわかる。聖書律法が支配したユダヤ文化とキリスト教文化は、他の文化を圧倒的に引き離し、実質的に全世界を支配した。

これを、単なる帝国主義的搾取とか陰謀などで片付けることはできないだろう。

世界に共産主義の反文化思想がはびこり、キリスト教思想が捨てられつつある。我々クリスチャンは、人々に正しい道を示し、この間違った潮流を逆流させなければならない。

 

 

2004年7月17日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp