欲得ずくで動く人間は許せない?


ライブドアニュースから:
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1678526/detail


今回の事件の総指揮を執るのが「欲得ずくで動く人間は許せない」という大鶴基成特捜部長(東大卒)だ。これまで、ゼネコン汚職事件や総会屋利益供与事件などを担当。副部長時代には日歯連事件、自民党旧橋本派の1億円ヤミ献金事件などを統括した。

「まじめに働いている国民が『こういうことがまかり通っていいのか』と憤慨するような事案を摘発していきたい」昨年4月の特捜部長就任会見では熱っぽく語っている。「目標を決めて努力を重ねていく性格」と自分を評するきまじめさで、法務・検察内では「堅物」ともいわれる。


「欲得ずくで動く人間は許せない」というのは個人の道徳としてはご勝手にと思うのだが、公的な立場にある人間としてどうだろうか。

資本主義市場というのは、「人間は欲得ずくで動く」ということを前提として成立している。

「まじめに働いている国民」でも、バーゲンで1円でも安ければそちらのほうを買うだろうし。1万円でも給料の高い会社に就職したいと思うだろう。

市場では、単に「まじめに働く」ということだけではなく、安い値で買って、高い値で売り抜けて巨額の利ざやを稼ぐ行為も認められているのである。

このような欲得ずくの行為を認めなければ、市場はきちんと機能しない。

商売人は、どこに最高価格で売りたい人がいて、どこに最低価格で買いたい人がいるかめざとく探している。そして、両者を結びつけて利ざやを稼ごうとしている。

このような商売人によって、世界の市場は支えられているのである。彼らを否定したら、かつてのソ連のように、石鹸を必要としている人々の近くの駅の貨車の中に大量の石鹸が放置されていた、というようなことが頻繁に起こるのである。

クリスチャンでも誤解している人がいるが、「欲望」を与えたのは、神である。

神は、人間に食欲・性欲・金銭欲・名誉欲…をお与えになった。

このような欲望を禁じるのは、禁欲主義と言って、聖書の思想ではなく、異教の思想である。

「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。
神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。」(1テモテ4・1−4)

ここで、結婚を禁じたり、ある食べ物を取ることを禁止する行為が断罪されている。

パウロは、それを「良心が麻痺した、うそつきどもの偽善による」と断言している。

事実ある異端の教派(中にはキリスト教の教派も)は、コーヒーやタバコ、アルコールを禁じる。しかし、コーヒー豆やタバコの葉を作られたのは神であり、アルコール発酵の仕組みを作られたのは神である。

「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つない」のである。

どうして我々は、神の作られたものを汚れていると言うのだろうか?

人為的に欲望を否定することは、神の創造秩序を否定することであり、それは絶対によい結果にはならない。

20世紀初頭の禁酒令により、アメリカの社会は混乱した。密造酒の売買によって、かえってマフィアを栄えさせることになった。

人間が金を稼ぎ、それを蓄えたいというのは、本能である。神がお与えになった欲望である。

こういった欲望を禁止し、「道徳」によって経済を動かそうとしたのが、ソ連や中国などの社会主義国である。

結果はどうなったか?かえって汚職をはびこらせ、特権階級を作り出した。経済は破綻し、国民全体が貧乏のどん底に落ちた。

一般の企業で働いたことがなく、もっぱら学問でしか経済を学んだことのない人間は、実体経済に対して大きな権限を持たないほうがよい。

現実の経済の仕組みについて、丁稚小僧をやりながら肌で理解しないと「欲望に基づく経済活動」を何か悪いものであるかのように誤解してしまうのである。

自分で起業して1万円を稼ぐのがどれだけキツいことか体験した人が検察に何人かいて欲しいものである。

 

 

2006年2月2日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp