聖書に対する真摯な姿勢がない教師について行くな


これまでいろんな流行にクリスチャンは騙されてきた。

教会成長学、切迫再臨終末論、フロイト流カウンセリング、可能性思考、霊の対決、・・・

流行の出所はほとんどアメリカであり、アメリカ神学校帰りの牧師が、最新の神学理論ということで日本人に紹介した。

これらによって日本の教会は利益を受けただろうか?

教会成長学で教会は成長したか?フロイト流カウンセリングで人が癒されたか?可能性思考で何か可能になったか?

もういいかげん騙されるのをやめよう。

こういった流行は日本の教会を成長させるどころか、むしろ、破壊してきた。

日本の教会は、ガタガタになった。

何が原因なのか? 教えが御言葉に基づいていないからだ。

「やればできる!」 そう積極的なプラス思考は重要だ。神は我々がプラス思考で生きることを望んでいる。

しかし、必ず「主にあって」という一言を付け加えるべきである。

主によらない可能性思考は、サタンの誘惑である。サタンは、エバに対して「神の御心によらなくても、あなたには可能性がある。あなたは、できる。あなたには素晴らしい未来が待っている」とささやいた。

世の「自己啓発セミナー」がサタン臭を発しているのは、「主によって」という一言が欠けているからである。

聖書の可能性思考とは、神の「御心」という限界を伴った可能性を信じるということである。

つまり、クリスチャンが最高の人生を求めるならば、まず、自分の計画をあきらめて神に自分を生きた供え物として、全焼のいけにえとして捧げなければならない(ローマ12・1)。

まず捨てることなくして、得ることはできない。

まず受身になって、神の計画に完全に自分を委ねることができなければならない。

神が用意された小舟に乗りこんで、どこにたどりつくかも分からない小川の上をただ流されるままに進む覚悟がなければならない。

その意味において、我々の可能性とは、「自己実現」を目指すものでは「まったく」ない。

アメリカン・ドリームのようなものを求めてうまく行く人生はどこかおかしい。

聖書において大きなことを行った人は、自分の計画をまず捨てさせられた。

モーセはイスラエルを救う計画を持っていた。しかし、逆に人を殺して失意のどん底に落とされる。自分の計画もなにもなくなってから、彼は呼び出され、イスラエルの導き手として選ばれた。

パウロは神のために人生を捧げた。彼には自分なりの計画があった。クリスチャンは神の意志に反していると考えたので、彼らを滅ぼすことを目指していた。しかし、突然イエスの幻が現われて、自分の計画を捨てさせられた。

神の助けによって自分の計画を成就しようとしても無駄である。一時的に成就するかもしれないが、自分を全焼のいけにえとして捧げて、人生を神に丸ごと明渡さない人間が成功するはずがない。

神の働かれる方法は、我々にとって「きわめて」不可解である。

毎回裏切られるといってよい。自分が思いもよらなかった道に導かれる。

本当のクリスチャン、本当に神に用いられるクリスチャンは、聖書と違った教理を述べ伝えて成功するはずがない。

神は真理にいたるまで徹底して失敗させ、へりくだりに導かれる。

この世界の知者によって味付けられた学説などまったく無意味だと悟るまで徹底して挫折させられる。

聖書に記された神の御言葉の前に土下座して「かしこまりました!」とだけ言う人間になるまでギュウギュウしぼられる。

我々が師を選ぶ際に、まず見極めなければならない第一条件は、「御言葉に対して一切文句を言わない」である。

「聖書はそう言っているかもしれないけど、私は・・・」なんていう人間について行くな。

そんな人間ろくでもない。

アメリカ発の流行によって、クリスチャンを騙してきた教師はこんなろくでもない奴ばかりだった、ということを我々はそろそろ悟るべきだ。

アメリカの○○大学院で博士号を取ったとか、△△神学校で宣教学博士号を取ったとか、何千人の集会を開いているとか、経歴とか肩書きなんぞ「まったく」関係ない。

問題は、聖書を最高権威として受け入れて、自分の思考全体を聖書によって徹底して作り変えようとしているかどうか、だ。

聖書に対する真摯な姿勢だ。

それだけだ。

 

 

2004年11月21日

 

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