契約は恐怖から始まる



モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。
すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。
すると、主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。
主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。
彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。
あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。
それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。」
それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。
モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」
三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。(出エジプト記19:7−16)

20章において十戒が与えられる前に、神は、民に恐怖をお与えになった。

「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」

神は主権者であられるから、生殺与奪の権威を持つことを悟らせるために、あえて恐怖を与えられた。

イルミナティが原爆を使って、世界を恐怖に陥れたのは、神の真似事をするためだ。

世界をバベルの塔の偶像礼拝に引き入れるために。

「私を拝め。拝まないとこんなことになるぞ」と。

JFKの暗殺も同じだ。毒殺でも可能だが、あえてわざわざ衆目の監視の中で殺害が実行された。

見せしめである。

契約とは恐怖を土台とする。

なぜならば主権者の選択だから。

ディスペンセーショナリズムは、「無条件の愛」という異端の教理によって人々に神を侮らせた。

教会で「あなたは愛されるために生まれた」なんていうスローガンが説かれているが、偶像礼拝の勧めである。

「律法は無効です。我々はすべての縛りから解放されました」なんていう教えも同じ。

このような異端の教えによって、教会から、神に対する恐れが消えた。

アメリカのいたるところにJesus loves you!などというステッカーが貼られている。

「イエスは友」扱いされている。

聖書の神といかに離れているか。

神は山の上の雷といなずまと密雲、角笛の音によって民を震え上がらせるかただ。

神がなぜあえて最初に恐怖をお与えになったかというと、契約の本質を示すためである。

契約とは、絶対的主権者と絶対的従者の契約であり、破った場合に恐怖の結果が不可避的に訪れることを前提としている。

だから、その後20章で示される十戒は、「失敗の許されない掟」として与えられた。

「赦し」や「愛」は、この基本原則が前提となってはじめて成立する。

十字架のキリストは、失敗の赦されない掟が前提としてはじめて意味を持つ。

神が、契約の体系を民に啓示された方法とは、このようなものである以上、我々も人々に神を伝える際に、「緩い神」「いい加減な主権者」との印象を与えないようにしなければならない。

教育も同じである。

子どもには、十戒を破ることがいかに重大なことであるかを教えなければならない。

ユーチューブに、寝つきが悪くて、夜遅くまで騒いでなかなか寝ない子供たちを脅かすために、恐ろしいメイクをしてろうそくを手に持った男が部屋に入って「お母さんの言うことを聞くか?」と脅かす日本のビデオがある。

外国人のコメントを見ると、「トラウマを残す」とか批判がある。

しかし、外国の教育がダメになったのは、子どもに罪を犯した場合に罰を与えず、トラウマを残さなかったからでる。

子どもが違反したときにしからないため、大人になってモンスターに変身するのだ。

アメリカは、規範意識のない若者による犯罪率の上昇によって崩壊しつつある。

昨今日本で頻繁に起こっている尊属殺人は、子どもに親の権威を教えなかったためである。

規範に対する違反は、はやいうちに罰するべきだ。

幼いうちに掟とその刑罰を教える。これが契約的教育である。

むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。
子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。
あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(箴言13:24、23:13−14)

体罰を極端に禁止する今の風潮は、社会の崩壊を狙うイルミナティによる戦略だろう。

「児童虐待防止」キャンペーンなど、奴らによる印象コントロールである。

もちろん、育児放棄したとんでもない親、食事も水も与えないで虐待する親は、論外である。

こんなのは犯罪であって、極端な例だ。

彼らは、極端な例を持ち出して、「虐待だ」「体罰はよくない」と訴え、社会をあらぬ方向に導こうとしている。

欧米社会は、このイルミナティの虐待キャンペーンによって若者を腐敗させてしまった。

社会をキリスト教の教えから離すことによって、根底から堕落させ、国を弱体化させる。こういう手を使っている。

教会は、ディスペンセーショナリズムの「無償の愛」「無条件の赦し」の教えを通じて、堕落させられた。

神に対する恐れのない教会員であふれかえっている。

牧師ですら、神への恐れがない。

教団において意見の異なる牧師を追い出すために、さしたる理由もなく「免職」に追い込む無法が頻繁に起こっている。

私は幸いなことに、クリスチャンになりたてのころに神の恐ろしさを身をもって体験した。

違反をするとどうなるか恐怖を与えられた。

この恐怖体験があるから間違った道に入ることを極端に恐れる。

神を甘くは見ない。

いつも、恐れている。

イスラエルは、その最初の段階で恐怖を植え付けられた。これが契約である。そして、これ以外の契約は偽りである。

神を恐れることを教えず、甘い言葉で塗りたくられたキリスト教は、まやかしである。

 

 

2010年8月16日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp