自然を規範にするな


ストレイ・シープ様、山谷氏の再建主義へのハチャメチャ批判を見ると、いかにキリスト教界にセオノミーを入れることをサタンが恐れているか分かります。

ノーマン・ガイスラーが再建主義を批判しているのと似ています。ガイスラーは再建主義を「神の創造にも自然にも反した思想」ということで攻撃し、そのため、「自然」を全的に堕落したものと見ないカトリックと共同しています。

山谷氏が正統としているカルヴァン派のヴァン・ティルが生涯に渡って批判したのは、「中立」でした。

彼は、自然を堕落したものと見て、自然にある法や、ノンクリスチャンの理性などをそのまま受け入れることは罪であると言いました。

今の教会は、口では「聖書のみ」と言いますが、実際のところは、「聖書プラス自然」です。

自然を中立のものとして見るから、自然法などの異教思想が侵入します。自然理性によって得られた学問の教えをそのまま受け入れています。

たとえば、文化相対主義です。私が牧師を務めていた教会の主任牧師は、「今の文化人類学によれば文化に優劣はないと教えているのですよ」と言いました。それに対して私は「聖書は文化に優劣があると教えています。首狩り族の文化とキリスト教文化を比較すればどちらが優れているか明らかです」と答えました。

この一言が私を追い出すことにつながったのですが、このように、まともに聖書信仰を表明すると、今の教会では生き残ることはできません。

この主任牧師は、かねてからリベラル神学やバルト神学を批判していました。しかし、フラー神学校とタイアップしていたこともあって、フラー神学校の神学を受け入れ、そこから新福音主義の教会への侵入を許しました。

フラー神学校を受け入れ、新福音主義を受け入れることは、「中立の幻想」をも受け入れることになります。

様々な領域について、世俗の学問や世俗の政治、経済、芸術などを無批判に受け入れ、世俗の学者の意見を肯定するために、教会に世俗思想が流入します。

ヴァン・ティルが戦ったのは実にこの点においてでした。聖書を前提としてものを考えなければ、宗教改革の「聖書のみ」の原則は崩れ、キリスト教は異端化します。

あらゆる学問や思想を、聖書というふるいを通してでなければ受け入れてはならない。「自然」を規範に置く山谷氏流のキリスト教は、実は宗教改革の原理にも、聖書にも反する異端であることは明らかであり、どちらに軍配が上がるかは歴史が証明してくれるでしょう。

 

 

2004年3月21日

 

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