クリスチャン教育に関する提言3


クリスチャンは、世界を正確に評価できなければならない。

我々の親が我々の世代の教育に失敗したのは、時代を正確に評価できなかったからだ。

これは、神学校の教育に問題があった。

我々を取り巻く環境について評価できる人材を育てなかった。

文明について解釈できる人間がトップに立っていなかった。

トップに立っていたのは、「この世界はサタンの世界であり、我々はそれを変える必要はない。まもなく再臨があり、携挙があるのだから、そこについて詳しく調べる必要はない」という考えの持ち主だった。

しかし、いくら「まもなく終末だ」といわれても、我々の生活は、これらの世界の影響に日々さらされている。

我々はいやおうなく文化と向き合わねばならない。

毎日アスベストにさらされている工場労働者に向かって、「まもなくそこから抜け出られるから待っていてください」と宣言することが何も意味しないように、「終末が来ます」といっても何もならない。

クリスチャンの指導者は、それに対処する方法を伝えてこなかった。

文化を評価する教育が神学校で行われてこなかったため、我々の実生活にとってほぼ無能な牧師が養成されてきた。

「これは、こういう意味があって、有害だからこう対処しなければならない」というような具体的な指導を何もできない牧師が、クリスチャンを有害な文化的影響にさらし続け、ついに、クリスチャンの大量死をもたらしてきた。

サタンは、彼らの文化に取り込むことによって、クリスチャンを絶滅しようとしている。

アメリカ人がそのよい例だ。

あれだけ聖さを求め、聖書的に生きることを目指してやってきたピューリタンの先祖を持つ彼らが、今日ソドム・ゴモラの住民になったのは、教会が「今日性(relevancy)」を持たなかったからだ。

クリスチャンの親たちが、子供の教育を国家主義者の手にゆだねることを警告しなかった。

進化論を教える人間、神抜きの世界を目指すヒューマニストによる洗脳に子供をさらすことを阻止しなかった。

神学校が、敵の策略を分析できる牧師を養成できなかったこと、これこそが、今日のキリスト教の衰退と、世界のサタン化の原因である。

私は、フランシス・シェーファーにおいて「クリスチャンによる世俗文化の解釈の方法」をはじめて学んだ。

フランシス・シェーファーは、ヴァン・ティル、ラッシュドゥーニーとドーイウェールトの影響を受けた人間である。

神はクリスチャンと世界を正しい状態に戻すために、彼らを登場させられた。

クリスチャン教育は、ABCだけではだめなのだ。

この世の学問が高度であるならば、それに対抗できるだけの高度なものを聖書的から作らねばならない。

ゲイリー・ノースがYou cannot beat something with nothing(代替物なしでは敵に対抗することはできない)と言った。

敵に対抗できるためには、それなりの代替物が必要だ。

敵の文化、主張、理論を正確に理解し、それに対する聖書的な回答、そして、それに代わる聖書的な文化、主張、理論を用意しなければならない。

だから、神学校は、世俗文化に対する高度な分析と解釈を行う必要がある。

旧来の組織神学は重要だが、それだけではだめだ。

それを現実の世界に適用する方法を伝授しなければならない。

ラッシュドゥーニーは、それを行った。

だから、ラッシュドゥーニーによる文明批判を学ぶことなしには、キリスト教の未来はないと言っても過言ではない。

今、アメリカのバイブル・カレッジでクリスチャンホームの子弟が学んでいるのは、「洗礼を受けたマルクシズム(Baptized Marxism)」や「洗礼を受けたケインズ主義(Baptized Keynesianism)」「洗礼を受けたフロイト主義(Baptized Freudism)」である。

ここで、洗礼を受けたとは、「授業の前にお祈りをする」という意味である。

授業の前にお祈りをするのは重要だが、しかし、それでよいというわけではない。

授業の内容がヒューマニズムでは意味がない。

食事の前に祈りをすれば、毒を食べても平気ではないのと同じだ。

内容を変えなければならない。

聖書的な政治学、経済学、心理学を作る必要がある。

世界観がまったく異なるものをそのまま受け入れることは死に直結する。

個別領域におけるリコンストラクションが必要なのである。

 

 

2008年11月12日

 

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