首尾一貫している聖書的キリスト教だけが生き残る


何を考えるにしても、「起源論」は重要である。

政治、経済、芸術、すべて「この世界はどうやって出来たのか?」という問題と切り離せない。

この世界は神が創造したのか、それとも、自然に出来たのか?

どちらの前提に立つかによって、すべてが「徹底的に」変わる。

聖書の一番最初の記事が天地創造であるのも、神が「創造論はすべての基礎である」とお考えになっているからにほかならない。

存在の起源を考慮に入れない思想はすべて欠陥思想である。

そんなものは首尾一貫性を問わない二流人間が信じる二流思想である。

進化論がなぜキリスト教に対して史上最大の攻撃を加えることに成功したかと言えば、キリスト教における起源論を破壊したからである。

進化論は創造の事実はなかったということを人々に信じさせた。

創造の事実がなければ、人間の存在は神に依存してないということになるので、神への責任から解放される。

人々は次のように考えるようになった。

「人間は進化してできたのだ。神の創造によるのではない。ということは、神に対して責任もない。だから、罪など存在しないし、悔い改めも必要ない。キリストの十字架も必要ない。つまり、キリスト教そのものは必要ない。」と。

進化論を信じながらクリスチャンをやっている人はみな次のうちのどちらかである。

(1)そもそもホンモノのクリスチャンではない。ホンモノでないから、信仰の内容についてどうでもよい。ただ形だけクリスチャン的生活をしているだけ。

(2)ホンモノのクリスチャンだが、サタンの誘惑に負けてしまい、思想的に首尾一貫しなくてもよい、自分の精神的・物理的生活が成立すればそれでよしと考えるように堕落した自己中心的クリスチャン。自分の鼻先を超えた事柄について無関心。

どちらもまともではない。相手にしても時間の無駄。

まともなクリスチャンは首尾一貫性を大切にする。だから、彼は進化論と信仰とを両立させることができない。

今の教会もクリスチャンも、ほとんどがこの2種類のいずれかである。

ヒューマニズムの世界観は、ある程度内部において首尾一貫しているが、しかし、キリスト教ほどではない。

キリスト教は、ヒューマニズムの欠陥を指摘して、完膚なきまでに叩き潰す力がある。

サタンにだまされている現代人に本当の解決を与え、本当の基準として生き残ることができるのは、徹底して首尾一貫している聖書的キリスト教以外にはない。

 

 

2005年3月4日

 

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