出席者数にこだわる必要はまったくない


(1)
キリスト教においてはびこった大きな間違いの一つは、「神の言葉すら人間が理性によって評価できる」と考えたことである。

近代になって実証主義が流行してから、人間の理性が万物の究極の尺度になってよいと考えられるようになった。

この考え方は、キリスト教の中にも侵入した。

しかし、「神の言葉を人間が評価できる」となれば、それは神の言葉ではなくなるのである。

当然のことだ。

聖書を人間の尺度により、実証科学的に取捨選択できるならば、それはもはや神の言葉ではなく、人間の言葉になる。

人間は自分が正しいと思ったことを聖書の中にとどめ、自分が間違っていると思ったことをそこから切り取ることができるとすれば、聖書はもはや神の言葉ではない。

それは、人間の言葉であり、それによって、人間は上から教えられる機会を失い、キリスト教は超越的、啓示的宗教であることをやめ、もっぱら人間の内側から出てくる考えに基づく、非超越的宗教になる。

つまり、キリスト教は聖書を丸ごと受け入れることなしには、超越的宗教として生き残ることができなくなるのである。

聖書とは、神の命令ではなく、単なる参考書になる。

だから、聖書に関して、われわれは、人間による取捨選択はできないのである。

われわれは、聖書を丸ごと受け入れるか、それとも、キリスト教を完全に捨てるか、2つに1つしか選択肢はない。

聖書が神の言葉であると認めたならば、われわれはそれをあらゆる事柄における最高権威として常に最大の敬意を払うべきである。

聖書をいじることはタブーである。聖書の絶対的権威に疑問を持つことは絶対に許されない。

人間の価値判断を優先してはならない。

エデンにおいてアダムは、「食べるのによさそうな実」を食べた。それは神が禁じられた実であった。

神は、「食べるのによさそうな実」を食べるな、と命令された。

特殊啓示は、常に一般啓示に優先するのだ。

ヒューマニズムは、「人間の目」を最優先する。

人間の目にどう映るかがもっとも大切だと教える。

だから、ヒューマニズムにおいて、エデンの実は取って食べてよいのだ。なぜならば、「食べるのによさそう」だから。

しかし、キリスト教は、一般啓示においてその実がいかにおいしそうに見えても、特殊啓示においてその実を食べるなという命令があるならば、それを食べるのはよくない、と教える。

「どう見えるか?」「どう感じるか?」は、聖書の御言葉の前でいかなる意味もない。

御言葉が禁じたならば、どんなに「おいしそうに見えても」食べてはならない。

神の命令とは、問答無用である。土を食べろ、と命令されたならば、すぐに食べなければならない、というようなものだ。

(2)
教会成長学の間違いとは、

御言葉に属すること、たとえば、聖書学や神学、教義、牧会、教会学校の先生・・・において、人間の判断を優先したところにある。

われわれは、駐車場を広くして人を集めることができたとしても、人の魂を獲得することはできない。

それとこれとはまったく異なる問題である。

どんなに頑張っても神の選びがなければ、人の魂は救われない。

われわれは救いに関して、伝えること以外において、何も貢献できない。

どんなに感動的な話をして、講壇の前に人々を集めたとしても、魂を変えることは神にしかできない。

無理に人を集めると、教会の運営がノンクリスチャン中心になり、霊的な興味のない人を喜ばせる集会になって、本当のクリスチャンがいなくなってしまう。

聖書の教えをまっすぐに語って、しかも、人が救われないならば、それは「神の責任領域」として心配しないことだ。少なくてもいいじゃないか。教会に何人人を集められるかを牧師の実力のバロメーターのように考えるのはまったくの間違いである。

われわれがなすべきことは、御言葉を伝え、行うことである。結果はまったく気にする必要はない。

信じるように予定された人は信じ、予定されていなかった人は信じない。

それは、われわれをはるかに超えるところで決定されている問題であるから、出席者数にこだわる必要はまったくない。

 

 

2007年7月18日

 

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