今は新天新地なのでクリスチャンが必ず勝つ


T:例の神学校からニュースレターが来て、神学校の校舎を新築移転したけれども、一昨年から献金額が急激に減少して困っている、昨年は遂に年度目標の3割を切ってしまった、とのことでした。ハーザーが売れなくなり、イベントに人が集まらなくなったのと時を同じくしています。

例の論文(反ディスペンセーショナリズム論)を公表した、ということは、この神学校は内部分裂したことになる。講師のうち、少なくとも二人(実践神学・伝道学担当者と、聖書神学・ギリシャ語担当者)は生粋のディスペンセーショナリストなのだから。


tomi: 流れとして、ディスペンセーショナリズムは終わったといえるかもしれませんね。

いろんな人から、「もうプレ・ミレはこりごり」というメールをもらいました。

T:しかし、では、みんながみんな、気づき始めたのか、というとそうでもなさそうです。欧米でも、例えばKJVdefenderの中に、反カルヴィニズム・ディスペンセーショナリズム・プレミレを声高く標榜しているのがいますから。

tomi: 最後のあがきでしょう。

ある兄弟は、羊と山羊が分けられているのではないかといっていました。

T: 毒麦が正体を現し始めたのでしょうか?

tomi: そうでしょうね。

というのも、アメリカ本国では、ディスペンセーショナリズムの3大神学校の1つがディスペンセーショナリズムを捨て、1つが再建主義になり、残っているのは1つだけという状況がすでに1990年代半ばにありました。

大本が崩壊しているので、末端の崩壊も時間の問題でしょう。

おそらく、ディスペンセーショナリズムを続けている以上、献金が集まらなくなって、つぶれるでしょうね。

ほんの数年前には、イルミナティというと馬鹿にされましたが、今は常識化しつつあります。

ディスペンセーショナリズムを捨てても、残る体系としては、ア・ミレですが、ア・ミレもディスペンセーショナリズムと同じようなものですから、空洞が生じる。

空洞よりは代替案を持っている再建主義のほうが強いですから、いずれ再建主義を認めざるを得なくなるでしょう。

T: さあ、そこでポスト・ミレに気づけば良いのでしょうけれども、古典的プレ・ミレに戻るか、ア・ミレに落ち込むかでは困りますね。
渡辺信夫先生の「ジュネーブ教会信仰問答」の解説では、さりげなくポスト・ミレが登場する。そこで「あれ?」と気づけばよいのですが、a-gnosiaでは・・・

tomi: いつのことでしょうか。渡辺先生は。

T: かなり前でしょうね。

私の手元にあるのは教文館から1998/04/10初版になっています。

tomi: そうですか。そうとう新しいですね。

古典的プレ・ミレは、患難後携挙でしょう。

ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレと同じように、「未来は暗い」という点で一致しているので、クリスチャンに希望は与えません。

「ただ待っておれ!」というだけですから。

ア・ミレは、「この世界が変わる可能性はない」ですからこれも希望がない。

クリスチャンに希望を与えない神学なんてのは、それこそ、まがいものなんです。

聖書啓示全体と矛盾する。

聖書啓示全体は、「地を従えよ」です。「諸国民を弟子となせ」ですから。

メシアニック・ジューも、プレ・ミレですが、尻すぼみだと聞いています。

私が2ヶ月に一回訪問していたユダヤ人夫妻も、メシアニック・ジューで、プレ・ミレでした。

「この世界は悪魔の世界でしょう。改革なんてむりです」と盛んに説得しようとしていましたが、もうこの説得そのものに悪魔の霊が乗っているので、気持ちが暗くなってしまいます。

私は、こういった人の気持ちを暗くするようなものは全部偽りだと考えています。

また来てくださいと、連絡がありましたが、「考え方が違うので」とお断りしました。

ただ、「あなたからは大変多くのことを学んだ」と感謝されました。

最初は、911を陰謀と述べると、笑われましたが、今では積極的に調べています。

T: ですから、この神学校から東南アジアの孤児院に派遣された云々という「証し」を読んでいて、このひと子供たちに何を語っているのか、と理解に苦しむのです。衣食住の面倒は見てあげるよ、でも世の中どんどん悪くなっていくのよ。コンピュータのチップを埋め込まれるかもしれないわよ・・・
そうですね。この神学校関係のメシアニック・ジューは、イスラエルにメシア・イエシュアが再臨されたら、ダビデの幕屋が再建されて、ユダヤ人も異邦人クリスチャンも、みなそこで礼拝するのだ!と叫んでショーファーを吹いていましたね。

tomi: そうです。メシアニック・ジューの根本的な間違いは、ディスペンセーショナリズムにあります。そして、ディスペンセーショナリズムでは、ユダヤ教の経綸が復活するとする。

だから、イエス・キリストの贖いはいったいなんだったのかという話になる。

動物犠牲が復活するわけですから。

ディスペンセーショナリズムのシステムでは、旧約→新約→旧約というふうに回帰する。

ユダヤ人にとっては、「我々の時代だ」ということになるが、それって、傲慢の種なんです。

ユダヤ人の優越感を満足させる教えだから。

それで、すごく不健全なんです。

T: 結局、どちらも現実逃避の自己陶酔なのですね。
切迫再臨・・・自分たちは悲劇のヒーロー・ヒロイン
メシアニック・ジュー・・・自分たちは「先取り」している、イエシュアが来たら、自分たちが「祭司長」!

tomi: ディスペンセーショナリズムが、イルミナティ・ロスチャイルドによって作られたのがわかります。

そうです。

現実逃避の自己陶酔。

だから、メシアニック・ジューのユダヤ人は傲慢ですよ。

DSなんて、異邦人は犬だぐらいの勢いですから。

で、重要な教理となってくると思われるのが、「新天新地」です。

イエスにおいて、新天新地が到来したという教理が非常に重要になってくる。

事実、イエス・キリストにおいて、旧約の天地は成就した。律法も預言者もすべて旧約聖書はイエス・キリストにおいて成就して、大団円を迎えた。幕は一度閉じたのです。

だから、紀元70年に、神殿が崩壊したということは、すなわち、旧約のシステムがすべて崩壊して、新天新地が到来したということなのです。

新しいシステムになった。

律法も新しくなった。神殿は、クリスチャンの体になった。その中に契約の箱も入っている。

契約の箱の中には、十戒の二枚の板も入っている。

心の律法というやつです。

T: プレ・ミレはこう言うのです「サタンが投げ落とされた、栄光の千年王国には罪も悪もないはずだ。」と

tomi: 栄光の千年王国には罪がないなんてどこにも書いてありません。

千年王国は、戦いの時期なのです。

教会が勝利する時代。

カルヴァンは、黙示録20章から、戦う教会を打ち出した。

「彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、 底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」

諸国民は、旧約時代において、惑わされていました。悪魔の奴隷でした。

しかし、紀元70年以降、伝道によって、異邦人が悟るようになった。異邦人がクリスチャンになった。

諸国民が悪魔から解放されてきたというのが、紀元70年以降の歴史です。

プレ・ミレの人々は、「いや、突如としてすべて悪魔の活動がなくなるのだ」というのですが、そういう箇所はありません。

で、O氏のようなプレ・ミレの人々は、「世界の戦争を見なさい!世界大戦!コソボ紛争、これでどうして千年王国ですか?」といいますが、こういう戦争を引き起こした連中、つまり、イルミナティは、ディスペンセーショナリズムによって、クリスチャンに祈ることをさせずに、その隙間を狙って、できることなら、新約時代においても悪魔の帝国を作ろうとした。

今、我々は千年王国の只中にいる。つまり、イエス・キリストが王として世界を支配しておられる。

だから、もし我々クリスチャンが祈って活動すれば、世界大戦など起きなかったんです。

イルミナティなんて完全にゴキブリホイホイで駆除できたはずです。

しかし、クリスチャンは、ディスペンセーショナリズムによって騙されて、祈らなかった。「世界は黙示録のとおりに破局に向かう。これは運命なんだ。だから祈っても無駄だ」と信じ込まされてきた。

完全にクリスチャンは霊的な縛りのもとにあったのです。しかし、その縛りとは、口の息をかければ解ける程度のものでした。

なぜならば、クリスチャンは「生き返って、キリストとともに、千年の間王となった」からです。

そして、悪魔は「千年の間縛って、 底知れぬ所に投げ込」まれている!

T: 長文なので引用しませんが、先に上げた教文館の「ジュネーヴ教会信仰問答」の渡辺先生の「釈義」は、見事にポスト・ミレが解説してあります。一部を御紹介します:

「御国は、日本語の語感と異なり、支配と訳すこともできる。むしろ、そちらの意味をより強く含む(中略)即ち、教会が前進し、信仰者の数が増し加わり、御霊の賜物が増し加わって行き、遂に御国が来る。逆の面から言えば、サタンの支配が日に日に退く。不義は義に打ち勝たれて行く。(中略)決して完成には至らないのであるが、しかし、完成に向けての努力は怠らない。神の国は始まっている。(中略)イエス・キリストの来臨によって、福音の支配のもとに明らかな形を取って来た。(中略)始まったことは完成に向けて方向着けられている。(引用」1コリント15:25・28)

tomi: そうです!渡辺先生は正しい。

この信仰が復活すれば、驚くべきことが起きるでしょう。

今は、ほとんどのクリスチャンが縛られている。

クリスチャンがこぞって「イルミナティの支配が崩壊するために祈りましょう!」とやれば、どうでしょうか。すぐにでもFRBは崩壊するでしょう。

クリスチャンには、王権がある。だから、クリスチャンがそれに気づいて王権を行使すれば、悪魔はすぐに退散するでしょう。

ベンジャミン・フルフォードが、「中国の秘密結社の助けによって、イルミナティを敗北させる」と言っていますが、悪魔が悪魔を追い出しても、新しい体制は悪魔の体制です。

これじゃあ、意味がない。

我々しかいないんです。

クリスチャンが、立ち上がる以外には、世界を変える方法は存在しない。

T: 「そうか、神様が味方だから、頑張ろう。よし、前進しよう、努力しよう。サタンよ退け!」となるはずですね。

「世の中どんどん悪くなる。誰も働くことの出来ない夜が来る・・・サタン、お前を縛る」なんて説得力も何もない。

それこそスケワの息子達ではないけれども、逆にふっとばされてしまう。

tomi: フラー神学校が言っている「悪霊退散」というのは、基本としてプレ・ミレがあるから、悪魔の側から見れば、「笑いの種」なんです。

歴史観は、基礎ですから。基礎が泥ならば、泥の活動しかできません。

問題は、プレ・ミレなんです。

ディスペンセーショナリズム。

これが諸悪の根源。

土台として、ポスト・ミレをすえない限り、我々の活動は、弱い。

悪霊を追い出すことなどできない。

T: 自己憐憫と自己陶酔の表裏一体、強迫観念、底なしの不安、そこから逃避するための「解離」・・・「クリスチャン」がみんな病んでいる。闘病中だった私を、みんな見下げていたけれども、自分たちはどうなの?

プレ・ミレを信じている限り、「希望」は自己矛盾しているので、結局、自己をごまかすことでしかない。

tomi: はったりをかますしかない。

プレ・ミレに立つ集会は、それゆえ、「はったり」のオンパレードなんです。

「我々が何をしても、悪魔には勝てない。なぜならば、今の時代は、悪魔の時代だから。千年王国が来る前に、悪魔に勝利できるはずがない。」と心の奥底で信じていながら、「悪霊を追い出そう」なんてやっている。

M先生は、信仰の人だが、残念なことに、バリバリのプレ・ミレです。

だから、やっていることは、悪霊追い出しでも、言葉がそれと矛盾している。

T: そうですね。教会の年報も毎年「主の御再臨は近い!」ですからね。

tomi: その再臨が近い、という言葉は、希望に聞こえるが、実際は、「だから、我々のやることは失敗する」なんです。

巧妙な仕組みだと思います。

再臨が近い=反キリストの全世界支配は近いですから。

切迫再臨は、切迫敗北なんです。

T: 「全能の神」「勝利者キリスト」を否定している訳ですからね。

tomi: そうです。

実質的に敗北宣言なんです。

だから、プレ・ミレは、悪魔礼拝の一種なんです。

T:「神様に不可能はない!」・・・??? 思いっきり矛盾している

tomi: そうです。

こと、歴史観になると、勝利信仰とまったく矛盾した内容の教えを信じている。

T: 「矛盾していませんか?」ときくと、決まって帰ってくる答えが「現実を見なさい。」

tomi: 「現実を見なさい」というのは、悪魔の常套手段。

「義人は信仰によって歩む」!

T: 矛盾ついでにもう一つ、アルミニアン聖霊派。
「人間には自由意志がある。自由意志で、信仰を選んだのだ。」→「聖霊様に完全に明け渡して、自分の意志を捨てて、聖霊様に支配されなさい。何も考えないで悩まないで、ただ聖霊様が下さる“思い”のままに行動しなさい」

tomi: 土台がアルミニウス主義というのがそもそも間違い。

アルミニウス主義は、カルヴァン主義を回避するために作り出された異端。

カルヴァン主義を信じると、神の絶対主権を受け入れることになり、人間の自由が奪われると考えた。

これは、ローマ・カトリックと同じように、「自然の自律」を残したいから。

つまり、律法の範囲を限定したいという隠れた動機がある。

T: 「エンタの神様」ではないけれども、「・・・するのも、自由だあ!」ですからね。

tomi: アルミニウス主義の基本には、「僕は律法なんか守りたくない。もっと自由に生活したい」という自律願望がある。つまり、これって、偶像礼拝そのもの。

エバが「実を食べてはならないといったけど、本当は食べたい」と考えたのと同じ。

神の特殊啓示「食べてはならない」よりも、「食べるのによく、自分を賢くしてくれそう」という自然啓示を選んだ。

欧米のキリスト教の基本には、この自然法の理念がある。

それで、欧米のキリスト教は、本当の意味においてキリスト教ではなかった。

特殊啓示の優越性を拒否したわけですから。

ヴァン・ティルは、それをひっくり返して、「特殊啓示は自然啓示よりも上位にある」と述べた。

T: 「主よ、あなたを愛します、あなたに従います」と歌いながら、無条件で従わない
神様に無条件の愛を求めながら、自分のほうは条件をつけるという、またまたパラドックス

tomi: 無条件は、「神が人間に対して求める」ものであって、人間が神に求めるものではない。

T: 「・・・と、ここまでは結構です。でも、同性愛だけは認めて下さい、いや、死刑は厳しすぎますから、ここは一つ無期懲役で・・・いや、ノンクリスチャンでも、いいひとなんですから、特例で天国へ入れてやって下さいよ、そんな堅いことおっしゃらないで、ね。」

tomi: たとえて言えば、エバが「神様、私はこの実を食べますが、それでも無条件で愛してください」といっているようなもの。福音派はそういう教え。つまり、自分個人を神とする偶像礼拝。

ディスペンセーショナリズムは、その自己崇拝を体系化してくれた。だから、キリスト教が大衆に浸透した。

T: そうか!福音派が信じている神様は「エンタの神様」なんだ!

tomi: アメリカの福音派の教えというのは、こういう不純な動機で広がったものなんです。だから、我々の模範にはならない。

もはや我々はこのような真相を知ってしまったので、縁を断つことでしょう。

ディスペンセーショナリズムの福音派は、偶像礼拝であって、我々が取り入れて、しがみつくべきものではない。

T: 「舶来高級」観に支配された、キリスト教「コピペ」派。

tomi: アメリカならいいはずだ、みたいな。

C: 困ったものです。教わりたくても まともな先生がいないとなると。
キリスト教界は瀕死なんですね
もちろん大どんでん返しがここからスタートすることを信じますが。
困ったものです。

tomi: この天地は新天新地であり、キリストが王なので、大丈夫です。こちらが必ず勝ちます。

 

 

2010年8月19日

 

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