刑罰は罪の大きさに応じたものであるべきだ


父母を殴る子を処刑せよとの命令が聖書にある。

父母は、最も身近で、最も敬うべき存在として立てられた権威であるので、父母を殴ることは、あらゆる立てられた権威に先立つ最も主要な革命である。

女子高生コンクリート詰め事件の主犯も、新潟の女子監禁事件の被告も、親に暴力をふるう手のつけられない反抗者であった。

こういった基本的な反抗を抑えることができない家庭は、社会的犯罪者を製造した責任を負うべきである。

未成年者に罪を問えないのであれば、代わりに父兄が負うべきである。

聖書において、「つくくせがあると分かっていながら牛を放し飼いにして、その牛が人をついて殺したら、その持ち主が死刑になる」という規定がある。

子供をしつけることに失敗し、その子供が自分に反抗し、暴力を振るうことを放置するならば、親は、その子供が社会に対して働いた悪事の責任を負うべきである。

そうしなければ、被害者は「やられ損」になるばかりだ。日本の法律と司法に対する人々の不満は、「善良に暮らしている市民が一方的に不利益を被る」判決を下しているというところにある。

罪にはそれ相応の刑罰がくだらないかぎり、人々の溜飲は下がらない。

子供が責任を問われないなら、親に責任を問え!

そうすれば、親は責任を持って子供が非行に走らないように努力するだろう。

あの極悪非道の女子高生コンクリート事件の被告が主犯を除いてみな出所しているという。そして、主犯ですら、2008年に出所予定という。

被害者の父兄は、量刑が軽すぎるとして、裁判所に対して大きな不満をもっているという。当然である。

自分の子供が40日も残虐きわまりない拷問と虐待と陵辱を加えられたあげくに、殺されて、コンクリート詰にされて捨てられ、懲役20年?共犯者に懲役5年?

聖書は、「やけどにはやけど」とある。

少年たちは、被害者の足に何度もライターのオイルをかけて火をつけ、それを払おうとした手にもオイルを掛けて火をつけたという。

罪を犯したならば、それと同じことをされる、と聖書は教えているのだから、犯人たちは同じことを国の手によってされるべきだ。

私の意見は極端だろうか。私の考えはアルカイダのようだろうか。

自分の身になって考えて欲しい。

自分の愛する娘がこのようなことをされて、懲役5年や20年で出所されて黙っていられるだろうか?

私は、微罪に対して重罰を望んでいるのではない。重罪に対して重罰でのぞめと言っているのだ。

刑罰はその罪に応じたものでなければならないのではないか、といっているのだ。

少年の犯罪だということで、成人に対するような刑罰を科すことはできないならば、その責任者である親に科せ。

それではじめてバランスが取れる。

今のような犯罪者だけを一方的に保護するような法律と司法の常識は、社会の崩壊を促す元凶である。

死刑を悪とする見方は聖書のうちに存在しない。

クリスチャンは死刑廃止論者ではないのか、という人はまったく聖書が分かっていない。

聖書には何度も「人を殺す者は、人の手によって殺される」と規定している。

これは、情緒の問題ではない。正義の問題だ。

司法にたずさわる人々は、死刑について否定的な思いを捨てて欲しい。いくら世界の潮流がそうだからといって、そんなものに流されないでほしい。

 

 

2004年8月24日

 

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