なぜクリスチャン同士のトラブルを裁判で解決してはならないのか?2


「神の怒りに任せなさいというが、それでは我々が受けた被害を取り戻すことはできないように思います。だから、直接的に裁判という手段に訴える以外にはありません。」と言うかもしれない。

クリスチャン同士の間での被害の解決法は、「忍従せよ」ということだ。

被害を取り戻そうとしてはならない。

相手からひどい中傷をされたから徹底して真相を明らかにしなければならない、と考えるべきではない。

なぜならば、聖書では次のように言われているからだ。


そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。(1コリント6・7)

「不正を甘受せよ」「だまされていなさい」という。

「何としてでも損失を取り戻さねば」と考える必要はない。

神がやってくださる。

時間はかかるかもしれないが、正しいことをしている人が中傷で永遠に苦しみ続けることはない。

神が必ず恥辱を栄光に変えてくださる。

ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。(1テモテ2・8)

怒ったり、言い争うことは無駄である。

それは際限がない。相手の非を責め、たとえ納得しても謝らないだろう。

人間の紛争解決の努力には限界がある。解決は「手を挙げて祈る」ことだ。

神に解決を委ねることだ。

人間としてできる限りのことはすべきだ。相手に理を尽くして説得する。謝罪を求める。。。

やるべきことをやって相手が謝罪しない、悔い改めないならば、もはや人間の領域を越えている。

人間の力が及ばない領域に問題は入った。

そういった場合に、クリスチャンは、神に登場してもらうのである。

祈ること、これ以外にはない。

自分にとって不可能な問題は、神に委ねて、後は寝て待つ。

自分の責任は果たしたと、すっきりした気持ちでいればよい。

そうすれば、神は最善の業をなしてくださるだろう。

人間は6日働いて最善を尽くす必要があるが、最後の1日、安息日は、神の働かれる時として取り残しておかねばならない。

全部やろうとすると、かえってダメになる。

 

 

2008年6月21日

 

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