認識論の問題を実用論と混同するな


U氏がホームページで私のページをリンクしているので反論を書きます。http://tokyo.cool.ne.jp/tbird/7-bbs-02.htm

<U>

その重要な要素とは、”科学は予知能力を持つ”ということですね。”物事やって見なければ解らない”は文句無く真理ですが、これが科学に精通すると、相当程度”やって見なくても”解るようになる。これは先端の科学者でも末端の技術屋でも原理的には同じことだと思います。なにもかも”やって見なければ解らない”のだったら設計など無意味でしょうし、見積もりも予算も組みようがない。だからこそ科学は一般性(普遍性)と再現性にこだわる。百回同じことが起きれば百一回目
も同じことが起きる可能性は極めて高い。勿論、これに反論することは簡単です。「百回同じ現象が起きたとしても、次ぎの一回が同じである保証は無い」「いかなる法則であれ、それは昨日までのもので、明日からは違うかも知れない」。この種の議論は論として正当な反論だったとしても、非科学的(非実用的)として排除されるわけです。同様に処女降誕のような歴史上一回しか起こり得ないとされる現象にも科学は興味を示さないでしょう。例外はビッグ・バンくらいなものかも知れません。

<tomi>

これは、問題がどこにあるかを誤解しています。

私が「100回同じ結果がでても、101回目がどうなるかはわからない」と言っているのは、「認識論」の問題であって、「実用性」の問題ではありません。

もし私が「100回同じ結果がでても、101回目がどうなるかはわからない。だから、科学は当てにならない」とでも言っているならば、このような反論が出ても仕方がありませんが、そんなこと言うつもりはまるでない。

私も科学が「再現性」を重視していることを知っていますし、現代科学が仮に100回同じ結果が出た場合に、再現性ありと判断して、それを法則化することを別に非難しているわけでもない。

私が述べているのは、「科学は認識論的に、奇蹟を否定できない」ということです。再現可能性とか、斉一説などの原理で、聖書の奇蹟までも評価することにはまるで正当性はない、歴史においてただの一回しか起こらなかった処女降誕を「斉一説」で評価できない、と言っているのです。

自然法則が10000回同じ結果を出したことは、「キリストは処女降誕で生まれた」という聖書の主張を否定する証拠にはならない。

なぜならば、「10000回自然法則が働くことを許すが、1回だけそれを許さない、というようなことをする神は存在しない」ということを科学は証明できないからです。

純粋に「人間は何を知ることができるか」という認識論の問題を、「人間にとって何が役立つか」という実用論の問題で解決することはできません。

これは、科学的方法を絶対化しがちな理系の人が陥りやすい誤謬です。

文系の人と交流して頭を柔らかくする必要があります。

<U>

PS1 生物学的な進化論を否定することはもはや無理な状況ではないでしょうか。なんせ遺伝子操作は実験室レベルだけじゃなくもはや工業化の段階だもんね。

<tomi>

これも実用論によって、原理までも肯定するという「飛躍」です。

遺伝子操作が工業化されたことと、生物学的進化論が正しいかどうかということは何の関係もない。

進化論を肯定する人々は、何でもかんでも自説の裏付けに利用しようとするが、まったくの一人相撲です。

そもそも、発想が「科学対宗教」という図式から抜け出していないから、「進化論反対=現代科学否定」という短絡的な発想をするのです。

我々が述べているのは、現代科学を否定することではなく、進化論そのものの内部矛盾です。進化論の前提に立つことによって、進化論自身が科学として成り立たないという問題を指摘しているのです。

進化があったとすれば、たとえば、光合成形成の一過程において必要だったはずの適切な酵素のたんぱく質をどうやって手に入れたのか?

偶然にたんぱく質1個を手に入れることすらありえないのに、偶然の作用だけで酵素を手に入れるなんてまったく不可能、ゼロです。

U氏は知的な方だから、ここまで説明しなくても理解できるはずです。進化論者は、理解力がないから理解できない、というよりも、むしろ、理解したくないから理解できない、と言ったほうがよいと思います。

これも一つの洗脳の結果だということに気付いていただきたいと思います。

 

 

2004年3月20日

 

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