字義的解釈と象徴的解釈の区別42


<Q>
影の部分がキリストの体になったのは、全人類に適用するためならば。なぜ私達はユダヤ人と同じ服装にしないのか。石同様に超民族的に見て障害は無いのに。又、なぜパウロは異邦の教会に神が選民のためにに与えた聖なる服装を着させなかったのか。ユダヤ人の服装はアラスカに住んでいる人々には適用できないので影の部分にあたるのか。でも寒くてもかさね着してはいけないとは神様が言うとは思えないし。たかが格好の問題とも思えないし。又、石についても、その時代を表すものではないかと。石の対極にあったものは鉄と土であり。今ならば核兵器と進化論に石は不釣合のような気もするのですが。石に相応する現代の死刑法は無いのでしょうか。無ければ別にいいですが。それとも石は永遠なものなのか。それを表す聖句があるのか。個人的には石は十字架刑のひな型のように感じるので、証人が罪人を十字架にはりつけて放置するのが良いのかと思うのですが。御意見をお願いします。

<A>
影の部分とそうではない部分というのではなく、旧約聖書はすべてキリストの影なのです。
ユダヤ人に関して、ある部分を除いて服装については特別な規定はありません。
今日、異邦人クリスチャンでも、服の4隅に「ふさ」をつけている人もいます。
進化論は偽の教えです。
石打ちが時代的なものであるならば、石打ちに相当する方法がなければなりません。
ただ単に絞首刑にするだけであれば、市民による処刑参加という神様の戒めが成就しません。
市民が処刑参加できるような方法を編み出すべきと思います。
しかし、世界中に石は存在するのですから、別に地域性、時代性を考慮する必要はなく、そのまま適用できると思います。
石打では、証人だけではなく、共同体のメンバーが参加することになっています。十字架刑では、そういうことはできいないと思います。

 

 

2007年2月13日

 

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